2013N313句(前日までの二句を含む)

March 1332013

 鍋釜を逆さに干せば春景色

                           清水哲男

ろんな「春景色」がある。目の付け方にもいろいろある。寒さからようやく解放されて、さまざまなものが活性化しはじめる春。そんなに激しくはなく、むしろやわらかな活性化と言ったほうがふさわしい。掲句に接して、すっかり忘れていた昔のある光景を思い出した。ーー春の昼下がり、食事が済んだあとの鍋釜を母が家の裏を流れている小川で洗って、お天気がいいから川べりの大きな石か何かの上に、逆さにして干しておくことがあった。そんな様子を目にして、いかにも春だなあと子ども心にもウキウキしていたものである。鍋釜でも食器でも、洗ったものは伏せて乾かす。農村暮らしも経験している哲男が詠んだのは、おそらくそれに近い景色だったかもしれない。庶民のつつましい生活が、天日に無造作に干してある鍋釜からも感じとることができる。その光景は庶民のしばしの平穏を語っているようでもある。掲句について、金子兜太は「軽い微笑みを誘い、春の麗らかな景色を引立てています。諧謔の持ち込み方がうまいですね」と評価している。哲男の鍋の句に「鍋底に豚肉淡く春の雨」がある。いずれも余計な力がこめられていないところに注目。『兜太の俳句塾』(2011)所載。(八木忠栄)


March 1232013

 春昼の口のあかない貝ふたつ

                           滝本結女

の砂抜きは3%の食塩水に数時間浸しておく。密閉しない程度に蓋をして暗くしておく。夜中に砂抜きしているシジミに「ドレモコレモミンナクッテヤル」という鬼ババの笑いを浮かべた石垣りんは、おそらく暗闇のなかでシジミのうごめく様子に、わずかな戦慄を覚えたのだと思うが、個人的には、チューチュー音を立てたり、ぴゅっと水を吐いたり、にょろにょろと舌を出したり、固く閉まった貝たちがほどけていく様子を覗き見するのは時間を忘れるほど楽しい。掲句はその後の調理した貝の姿であろう。加熱後、口が開かないのは「元から死んでいた貝だから食べてはいけない」と教わったけれど、まるでこのふたつがぼんやり昼寝でもしているように見えてくる。作者も、すぐさま取り除くことはしないで、そのうち開くんじゃないか、とのんきに眺めている様子もある。春の昼餉のひとときは穏やかに過ぎていく。そうそう、あまりの可愛らしさにこちらも(^^)〈豚の子の白き睫毛に春来たり〉『松山ミクロン』(2013)所収。(土肥あき子)


March 1132013

 石楠花の蕾びつしり枯れにけり

                           照井 翠

色の花が咲く、いわゆる「アズマシャクナゲ」の蕾だろう。例年ならばそれこそ「びっしり」とついた蕾が春の到来を告げてくれるのだが、それが今年はことごとく枯れてしまっのだ。枯れたのは、今日でまる二年目になる福島の大津波のせいである。かつて見聞したこともない異常な光景だが、この異常は自然界にとどまるわけにはいかなかった。「気の狂(ふ)れし人笑ひゐる春の橋」。作者は釜石市で被災した。「死は免れましたが、地獄を見ました」と句集後記にあり、また「三・一一神はゐないかとても小さい」という極限状況のなかで、辛うじて正気を保つことができたのは、長年携わってきた俳句のお陰だとも……。ここで読者は少し明るい気持ちにもなれるのだが、昨今のマスコミが伝えている現在の福島の様子には、依然として厳しいものがある。何ひとつ動いていないと言ってもよいだろう。直接に被災はしていない私などが、机上から何を言っても空しいとは思うのだけれど、他方で何かを言わなければ気が済まない思いがむくむくと頭をもたげてくるのも正直なところだ。『龍宮』(2012)所収。(清水哲男)




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