2013N39句(前日までの二句を含む)

March 0932013

 さつきまでマラソンコース桃の花

                           峯尾文世

の花は古くから親しまれているが特に都会生活では、雛祭に花屋で買い求めてしばらく楽しむくらいで、梅や桜ほど身近な存在ではないだろう。しかし、ふっくらとしたその形や濃い花の色、なにより、もものはな、という音が、可愛らしく春らしい。華やかでありながらどことなく鄙びていると言われる桃の花、この花らしさはこれまで多く詠まれているが、掲出句の桃の花は新鮮な光を放っている。句集『街のさざなみ』(2012)のあとがきに「常に〈語らぬ俳句〉を心がけてまいりました」とあるが、一読して、あ、いいな、と感じさせる句が並ぶ中、即愛誦句となったのがこの句だった。春を呼ぶマラソン、は誰でも思うところだが、さっきまで、の一語が風景を生き生きと動かす。(今井肖子)


March 0832013

 勝負せずして七十九年老の春

                           富安風生

、一度も「勝負!」と思ったこともしたこともなくて79歳に相成りましたという句。一高、東大法科を出て逓信省に入り、次官となって官僚の頂点に登りつめる。俳人としては虚子門の大幹部で「若葉」を創刊主宰そして芸術院会員だ。勝負してるじゃん。そんでちゃんと勝ってる。連戦連勝じゃんか。と思うのはこちらのひがみ根性。こういう人に限って勝負したという意識が無いんだな。自然体でなるべくしてなるところに落ち着いたんだと本人は思っていらっしゃる。あるいは、まあ可もなく不可もなくでございますくらいはおっしゃるのかもしれない。苦節何年とかいうのは歯を食いしばってるということだから勝負してるということ。風生さんには苦節の意識も無いんだと思います。あなたは風生を語るときにどうして彼の学歴とか社会的な地位とかを必ず言うのか、それは俳句の良し悪しと別のところで批評してることにならないかと問われたことがある。そうじゃないんだと僕は応える。風生俳句にはっきりと出ている余裕の風情、これは社会的な地位とも無縁ではない。そしてどこか俳句に対して「余技」の意識が感じられる。余技といってもいい加減に関っているという意味ではない。「たかが俳句、されど俳句」の両者の間合をよくわかっているということ。殊に主宰などと呼ばれる人には「されど俳句」の意識が強すぎてやたら肩に力が入ってる方がいらっしゃる。僕も気をつけなきゃ。どこかで「たかが俳句」の「謙虚」も大切なのだ。「別冊若葉の系譜・通巻一千号記念」(2012)所載。(今井 聖)


March 0732013

 ぶつかって蝶が生まれる土俵かな

                           小倉喜郎

よいよ春場所が始まる。先場所は日馬富士が全勝優勝したが今場所はどうだろう。昔地方に住んでいて、毎日中入り前から相撲中継を見ていたときには一度本物の勝負を見てみたいものだと思っていた。東京にきてその気があればいつでも両国国技館へ行けるのになかなか腰が上がらない。実際見に行った人の話では張り切った力士の身体と身体のぶつかる音、組むうちにだんだん赤みを帯びてゆく肌の色など臨場感にあふれたものらしい。やっぱり何でもライブが一番。立ち会いのぶつかり合うその瞬間、火花ではなくひらひら紋白蝶など生まれる発想が奇想天外のようで説得力があるのは柔らかな力士の肉体がイメージとしてあるからか、など掲句を眺めながら考えている。『あおだもの木』(2012)所収。(三宅やよい)




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