February 232013
白梅に立ち紅梅を見て居りぬ
上迫しな女
今年は梅が遅いという。近所の梅園は先週の日曜日で二三分咲きだったが植木市も立って、人がずいぶん出ていた。毎年のことだがまだまだ寒く、じっと佇んでいたりお弁当を広げたりしている人はあまりいないが、焼きそばや甘酒はよく売れていて、屋台の前のテーブルは満席。その真ん中にほぼ満開の紅梅がひょろりと立っていたが、見上げる人もほとんどなく香りも焼きそばにかき消され、なんだか気の毒だった。掲出句の紅梅は梅園の隅にくっきりと濡れたように立つ濃紅梅だろうか、遠くからそれをじっと見ている作者である。青みがかったり黄みがかったり、さまざまにほころんでいる白梅の近景と一点の紅梅の遠景が、一句に奥行きを与えると同時に、梅見らしいそぞろあるきの感じを醸し出している。『旅の草笛』(2001)所収。(今井肖子)
February 222013
二度呼べばかなしき目をす馬の子は
加藤楸邨
横浜横須賀道路は横須賀に近づくにつれて左右が山。夜は車の数も極端に少ない。路側の灯だけが等間隔に続いていく。走っていていつも思うのはこの山には狸や狐や猪など野生動物が今この時も住んでいるのだろうかということ。ときどき「動物注意」の看板が出てくるから轢かれて死んだりするのも居てそれなりに動物は生息しているのだろう。何を食べているんだろう。冬だと飢えているのだろうな。個人的に飼ったことのある動物は犬、猫、雀、栗鼠(シマリス)、烏。(雀と烏は野鳥なので飼育は禁じられている。両方とも巣から落ちたのを拾ってきて傷が癒えたら野に帰したのである)それから住まいが家畜試験場の中にあったので鶏と豚。栗鼠を除いてはほんとうに賢かった。雀でも鶏でも喜怒哀楽はちゃんとある。雀にいたっては朝寝ているこちらの髪の中に入り込んで起こしにきた。今でもラブラドール犬の梅吉と一緒にベッドで寝ている。こんな句を読むといろんな奴らとの交流を思い出して胸が熱くなる。「角川文庫・新版・俳句歳時記」(1984)所載。(今井 聖)
February 212013
風光る一瞬にして晩年なリ
糸 大八
春というにはまだまだ寒い毎日だけど光はふんだんに降り注ぎ、あたりの風景を明るくしている。寒気の残る風が光るという発想を誰が見出し、季語になっていったのか。近代的抒情を感じさせる言葉だが正岡子規も用いているぐらいだから使われだして長いのだろう。もちろん風そのものが光るわけではないが、今までくすんで見えた黒瓦だとか生垣などが輝きを増すにつれ、それらを磨きあげる風の存在を感じる。「一瞬にして」の措辞は光のきらめきから引き出されているのだろうが、その言葉に対して「晩年」の二文字が時間の対比を際立たせる。一日一日は長いのに今まで歩んできた月日のあっけなさを思わずにはいられない。いつが自分の晩年なのか、人生後半にさしかかると、春の明るさのうちにこうした句が身にしみる。『白桃』(2011)所収。(三宅やよい)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|