蕎麦アレルギーなのに「やぶそば」にはつきあいでよく行った。(哲




2013ソスN2ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2122013

 風光る一瞬にして晩年なリ

                           糸 大八

というにはまだまだ寒い毎日だけど光はふんだんに降り注ぎ、あたりの風景を明るくしている。寒気の残る風が光るという発想を誰が見出し、季語になっていったのか。近代的抒情を感じさせる言葉だが正岡子規も用いているぐらいだから使われだして長いのだろう。もちろん風そのものが光るわけではないが、今までくすんで見えた黒瓦だとか生垣などが輝きを増すにつれ、それらを磨きあげる風の存在を感じる。「一瞬にして」の措辞は光のきらめきから引き出されているのだろうが、その言葉に対して「晩年」の二文字が時間の対比を際立たせる。一日一日は長いのに今まで歩んできた月日のあっけなさを思わずにはいられない。いつが自分の晩年なのか、人生後半にさしかかると、春の明るさのうちにこうした句が身にしみる。『白桃』(2011)所収。(三宅やよい)


February 2022013

 肉マンを転んでつぶす二月かな

                           井川博年

い日にせっかく買ったアツアツの肉マンを「転んでつぶす」とは、なんてマン(間)がいいんでしょ、と我が友人ゆえに揶揄したくもなる句だ。余白句会の創立(1990年9月)メンバーでありながら、俳句が上達することに必死で抵抗しているとしか思われない(?)博年(俳号:騒々子)が、1992年2月の余白句会で席題「二月」で珍しく〈天〉を獲得した句である。作者会心の作らしく、本人がうるさく引き合いに出す句である。通常、俳句は年月かけて精進すれば、良くも悪くもたいていはうまくなってしまうように思われる。いや、その「うまく」が曲者なのだけれど、博年は懸命に「うまく」に抵抗しているのではなかろうか? 今も。えらい! 掲句は長い冬場のちょいとした意外性と他愛ないユーモアが、句会で受け入れられたかも。俳人はこういう句は決して作らないだろう。ちなみに博年の好物は鰻(外で食べる鰻重か鰻丼)だそうである。逆に大嫌いなものは漬物。どうやら、松江のお坊っちゃまで育ったようだ。同じ日の句会で「蛇出でて女人の墓に憩いける」が、なぜか〈人〉に選ばれている。蛇足として、博年を詠んだ拙句をここに付します。「句会果て井川博年そぞろ寒」。「OLD STATION」15号(2012)所収。(八木忠栄)


February 1922013

 子猫あそばせ漱石の眠る墓

                           村上 護

所の野良猫たちも朝な夕なに恋の声をあげる。じきに子猫の声も混じることだろう。恋のシーズンの恋猫からお腹の大きい孕猫、さらには子猫まで、くまなく季語になっている動物は他にいない。これは猫好きの人間が多いというより、猫が人間の日常への食い込み具合を物語るものだろう。夏目漱石は雑司が谷墓地に眠る。日当りの良い、猫には居心地のよさそうな場所だ。漱石の墓石は大きすぎて下品と苦言するむきもあるが、漱石の一周忌に合わせ妹婿が製作したという墓石は、鏡子夫人の『漱石の思ひ出』によると「何でも西洋の墓でもなし日本の墓でもない、譬へば安楽椅子にでもかけたといつた形の墓をこさへようといふので、まかせ切りにしておきますと、出来上つたのが今のお墓でございます」とある通り、確かに周囲に異彩を放つ。しかし、自然石でもなく、四角四面でもない墓石は、お洒落な漱石にぴったりだと思う。肘掛け椅子のようなやわらかなフォームには幾匹も猫が収まりそうなおっとりとした大らかさがある。とはいえ、大の猫嫌いだったといわれる鏡子夫人は、この墓石のかたちにしたことを多少後悔しているかもしれない。〈ひと枡に一字一字や目借時〉〈四方(よも)見ゆる其中つれづれ日永かな〉『其中つれづれ』(2012)所収。(土肥あき子)




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