またまた東京地方に雪の予報。そんなには降らないらしいが。(哲




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February 1922013

 子猫あそばせ漱石の眠る墓

                           村上 護

所の野良猫たちも朝な夕なに恋の声をあげる。じきに子猫の声も混じることだろう。恋のシーズンの恋猫からお腹の大きい孕猫、さらには子猫まで、くまなく季語になっている動物は他にいない。これは猫好きの人間が多いというより、猫が人間の日常への食い込み具合を物語るものだろう。夏目漱石は雑司が谷墓地に眠る。日当りの良い、猫には居心地のよさそうな場所だ。漱石の墓石は大きすぎて下品と苦言するむきもあるが、漱石の一周忌に合わせ妹婿が製作したという墓石は、鏡子夫人の『漱石の思ひ出』によると「何でも西洋の墓でもなし日本の墓でもない、譬へば安楽椅子にでもかけたといつた形の墓をこさへようといふので、まかせ切りにしておきますと、出来上つたのが今のお墓でございます」とある通り、確かに周囲に異彩を放つ。しかし、自然石でもなく、四角四面でもない墓石は、お洒落な漱石にぴったりだと思う。肘掛け椅子のようなやわらかなフォームには幾匹も猫が収まりそうなおっとりとした大らかさがある。とはいえ、大の猫嫌いだったといわれる鏡子夫人は、この墓石のかたちにしたことを多少後悔しているかもしれない。〈ひと枡に一字一字や目借時〉〈四方(よも)見ゆる其中つれづれ日永かな〉『其中つれづれ』(2012)所収。(土肥あき子)


February 1822013

 乗り継いで鴬餅は膝の上

                           小田玲子

物用に「鴬餅」を求めた。近畿地方の名物である。乱雑に扱えば、せっかくの美しい鴬餅が、箱の中で偏ったり形が崩れたりしてしまう。だから乗り継ぐ度に、丁寧に膝の上に置いておくのだ。この行為だけをとれば、日常的に誰もがやっていることであり、特別に珍重すべきことではない。しかし、作者があえてこうして俳句に詠んだのは、このときのこの行為に、言外の思いをこめたかったがためだろう。つまり、これから訪ねていく先の相手に対する緊張感のほどを、平凡な行為に託したかったということだ。そのことによって、なんでもない日常的な行為が、作者にとっては特別な意味があることを、さりげなく読者にささやくかたちで告げようとしている。けれん味の無い詠みぶりだけに、読者にもその思いが抵抗感なく伝わってくる。日常を日常として詠むことにより、人生のある断面がすうっと濃く浮かび上がってくる。俳句の面白さの一つが、ここにある。『表の木』(2012)所収。(清水哲男)


February 1722013

 手にゲーテそして春山ひた登る

                           平畑静塔

にゲーテ。これは、持つ自由、読む自由、自由に言葉を使える軽やかさがあります。春山をひたすら登る。これは、歩く自由。野に解き放たれた犬のように、春山を登る喜びがあります。俳句としては例外的に接続詞「そして」を入れていますが、句の中に自然になじんでいて、軽やかな調べを作っています。「そして」は順接なので足し算的な意味がありますが、掲句では同時に、失われたものを取り返す意味もあるように読めます。掲句は、『月下の俘虜』(酩酊社・1955)所収ですが、作者は、昭和15年2月、京都府特高に連行され、一年間京都拘置所で拘留。「足袋の底記憶の獄を踏むごとし」。昭和19年、軍医として中国西京に赴き、昭和21年3月帰還。「徐々に徐々に月下の俘虜として進む」「冬海へ光る肩章投げすてぬ」「噴煙の春むらさきに復員す」。新興俳句弾圧事件で投獄されながら、執行猶予付きで他より早く保釈されたのは、軍医としての「手」を必要とされたからでしょうか。しかし、ほんとうに春はやってきて、手にゲーテをかむように読み、足に春山を踏みしめて、失われていた自由を取り戻せた、春の句です。以下蛇足。「手にゲーテ」とはいかにも三高京大ですね。うらやましい教養主義です。それがキザではないのがいいなあ。(小笠原高志)




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