マンションのエレベーター交換。どういう手順でか、興味津々だ。(哲




2013ソスN2ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1722013

 手にゲーテそして春山ひた登る

                           平畑静塔

にゲーテ。これは、持つ自由、読む自由、自由に言葉を使える軽やかさがあります。春山をひたすら登る。これは、歩く自由。野に解き放たれた犬のように、春山を登る喜びがあります。俳句としては例外的に接続詞「そして」を入れていますが、句の中に自然になじんでいて、軽やかな調べを作っています。「そして」は順接なので足し算的な意味がありますが、掲句では同時に、失われたものを取り返す意味もあるように読めます。掲句は、『月下の俘虜』(酩酊社・1955)所収ですが、作者は、昭和15年2月、京都府特高に連行され、一年間京都拘置所で拘留。「足袋の底記憶の獄を踏むごとし」。昭和19年、軍医として中国西京に赴き、昭和21年3月帰還。「徐々に徐々に月下の俘虜として進む」「冬海へ光る肩章投げすてぬ」「噴煙の春むらさきに復員す」。新興俳句弾圧事件で投獄されながら、執行猶予付きで他より早く保釈されたのは、軍医としての「手」を必要とされたからでしょうか。しかし、ほんとうに春はやってきて、手にゲーテをかむように読み、足に春山を踏みしめて、失われていた自由を取り戻せた、春の句です。以下蛇足。「手にゲーテ」とはいかにも三高京大ですね。うらやましい教養主義です。それがキザではないのがいいなあ。(小笠原高志)


February 1622013

 早春や目つむりゐても水光り

                           越後貫登志子

春と浅春の違いが話題になった。季感はほとんど同じなので、あとは感覚の違いということだったが、浅春は、春浅し、で立っておりたいてい、浅き春、春浅し、と使われる。浅き春は、春まだ浅いということでやや心情的、言葉として早春よりやわらかい、などなど。確かに個々の感覚なのかもしれないが、この句に詠まれている水のきらめきは、まさに早春のものだろう。風に冷たさが残っていても、そこに春が来ていることを感じさせてくれる。耀く水面を見ていた作者、目を閉じてもその奥にまだ春光が残っている。この句の隣に〈早春の馬梳かれつつ日に眠る〉(小池奇杖)とあり、春は空から日ざしから、と言うけれどほんとうだな、とあらためて思うのだった。『草田男季寄せ 春・夏』(1985)所載。(今井肖子)


February 1522013

 ねずみの仔凍てし瞼の一文字

                           平山藍子

の鼠の仔は死んでるのかな。生きたまま発見されたけど「凍てし」は寒い外気を喩える比喩なのか。どちらにしても鼠の仔が哀れだなあ。寒鴉なんか季語だし、鴉の孤影とかいってよく詠まれるけど、哀れを詠んでも余り物を少しやろうとかは考えないのだろう。はいはいそれはもっともです。害鳥ですからね。近くの公園で犬を連れて歩いていると近所の爺さんが家を出たり入ったりしてこちらをうかがっている。「犬の糞は持ち帰ること」と公園に貼ってあるのでこちらの所業を見張っているのかなと思い立ち去ってふりかえるとその爺さん、辺りを気にしながら公園のつがい鳩に餌をやっていた。公園には「鳩に餌をやらないで」とも書いてあるのでこちらの眼を気にしていたのだった。こんな爺さんを僕は好きだ。じゃあ、お前、ごきぶりとか蚊はどうなんだといわれると考えてしまうけど。鼠の仔もよく見ると可愛いよね。「寒雷・昭和45年3月号」(1974)所載。(今井 聖)




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