スーパーボウルの正規チケットは9万円前後。それでも入手困難。(哲




2013ソスN2ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0422013

 立春の日射しへ雪を抛り上げ

                           大滝時司

日立春。「ちっとも春らしくないな」という人がいるけれど、立春は春のはじまる日なのであって、春ではない。灰色に塗りつぶした画用紙の隅っこくらいに、ぽつんと緑か黄色の点を打ち、この点を春と見立てた感じである。つまり、季節はまだまだ冬の色のほうが勝っているということだ。東京辺りでもそんな具合だから、北国は依然として冬の真っ盛りにある。毎日のように雪が降るし、除雪作業に追われる日々はつづいたままだ。でも逆に、そんな土地柄だからこそ、「春」という言葉には鋭敏なのである。立春と聞いて明るい心になるのは、雪の少ない地方の人よりも、だんぜん雪国の人のほうが多いだろう。この句には、その気分がよく出ている。珍しく晴れた立春の日射しに向かって、勢いよくスコップの雪を抛り上げる作者の動きは軽快だ。明日も明後日も除雪作業はつづいていくのだが、作者の心には早や雪解け水のように明るいものが流れはじめているのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 0322013

 節分の高張立ちぬ大鳥居

                           原 石鼎

分の日、大鳥居の向こうには高張が連なる参道が見えます。節分は、旧暦の大晦日です。かつては、一年の負債の一切を負い、あるいは清算し、新年に向けてリセットできる日でした。「鬼は外、福は内。」旧い年の穢れをはらい、新春を迎える大声の儀式です。高張は、節句、例祭、季節の祭に境内に立てる木の柱。その上に提灯をつけて高張提灯をともす祭もあります。高張を立たせることで、上(神)とつながる柱を立たせようとしたのでしょうか。神を数える助数詞は「柱」ですから、高きにおわす神と地上とをはし渡しする高張なのかもしれません。諏訪大社の「御柱祭」には、そのような気持がありそうです。掲句を嘱目として読むと、たとえば、作者の故郷、出雲大 社に向かう商店街の坂道をゆっくり歩きながら、大鳥 居が視界に入り、その向こうに高張が立ち並ぶ、遠近法的な配置が見えてきます。手前に大鳥居、向こうに高張。高く、奥行きのある空間のその先には、にぎわいの豆まきの声と音が空にはじけましょう。私は本日、鶴岡八幡宮の節分節会に詣でます。「日本大歳時記・冬」(1981講談社)所載。(小笠原高志)


February 0222013

 寒灯といふ暖色のまたゝける

                           後藤洋子

灯、冬の灯火である。寒中に限らないが、寒、の一字がそうさせるのか、冬灯、よりともしびの色を感じさせない寒々しさがある。それをこの句の作者は、暖色、と表現している、そこが印象的だった。寒灯というと、灯っていても逆に灯っているからこそ寒々しい、と言いたくなるが、遠くまたたく灯火を見ているうちに、寒い闇の中にあるからこその温もりが、その色から伝わってきたのだ。同じ作者に〈地吹雪や白もまた炎えたぎる色〉とある。地吹雪の激しさが冷たい雪の白を、炎えたぎる色、とまで言わせたのだろうが、いずれの句も、独特の色彩感覚と思いきりの良い表現力が、一句を個性的に仕上げている。『曼珠沙華』(1995)所収。(今井肖子)




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