はやく春にならないかなあ。馬鹿みたいだけど、それだけが望み。




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January 2312013

 冬凪や鉄塊として貨車憩ふ

                           木下夕爾

とした冬のある日、風がない穏やかな日になったりすることがある。それが冬凪。寒中の凪を「寒凪」と言い、北海道あたりの寒さ厳しいなかでの凪はとくに「凍凪」と呼ばれる。吹雪であろうが、風雨であろうが、機関車に引かれて貨車は走りつづける。しかし、冬凪で停車しているときは貨車としてではなく、黒々とした単なる鉄の塊となって、ホッとしているようにも見えたりする。今はじっくり憩っているのだ。どんな天候にもかかわらず走っているときは貨車そのものだけれども、停車して憩っているときは鉄の塊と化している。「鉄塊」としてとらえた観察は鋭いし、中七はこの句のポイントになっている。貨車の静と動が対比的に見えてくるようにも感じられる。「貨車」のままで憩っているわけではなく、鉄の塊と化してしばし憩っているというわけだ。憩っていても鉄塊であり、貨車は決して緩んでいるわけではないことを理解させてくれる。夕爾には、他に「汽笛の尾ながし片側町の冬」「冬濤とわかれ大きく汽車曲る」などがある。『菜の花集』(1994)所収。(八木忠栄)


January 2212013

 雪景色女を岸と思ひをり

                           小川軽舟

に縁遠い地に生まれたせいか、降り積もった雪の表情が不思議でならない。川にぽつんぽつんと雪玉が置かれているように見えたものが石のひとつひとつに積もった雪であることや、くっきりと雪原に記された鳥の足跡が飛び立ったときふつりと途絶えているのさえ、神秘に思えていつまでも見飽きない。女を岸と思うという掲句は、ともすると「男は船、女は港」のような常套句に惑わされるが、上五の雪景色がひたすら具象へと引き寄せている。村上春樹が太った女を「まるで夜のあいだに大量の無音の雪が降ったみたいに」と描写したように、川へとうっとりと身を寄せるように積もる純白の雪の岸には、景色そのものに女性美が備わっている。一面の雪景色のなかで、なにもかもまろやかな曲線に囲まれた岸と、そこに滔々と流れる冷たい水。雪景色のなかの岸こそ、女という生きものそのものであるように思えてくる。〈木偶は足浮いて歩めり燭寒く〉〈河馬見んと乗る木の根つこ春近し〉『呼鈴』(2012)所収。(土肥あき子)


January 2112013

 ちちははもおとうとも亡しのつぺ汁

                           八木忠栄

ちははもおとうとも亡し……。八木忠栄に少し遅れて、私も同じ境遇になった。「のっぺ(い)汁」は、作者の故郷である新潟の家庭料理として有名だ。父母も弟も健在だったころには、よく家族みんなで食べたことを思い出している。思えば、そのころが家の盛りだったなアというわけである。正月や盆などの年中行事に食されることが多いそうだから、のっぺ汁はそのときどきの思い出を喚起してくれる料理でもあるだろう。この句を読んで、さて我が家の料理では何が該当するだろうかと考えてみた。が、残念なことに、何も思い当たらない。私の故郷である山口で有名なのは下関のフグ料理くらいで、我が家のような寒村暮らしには無縁であった。フグどころか、当時は海の魚を口にしたことはなかった。つまり私には、掲句のように食べ物から家族を思いだすよすがはないのである。寂しい話だが、仕方がない。それにしても弟に先に逝かれるのはこたえるな。作者に「弟勝彦を悼む、二句」があり、一句は次のようだ。「元天体少年おくる冬の岸」。合掌。『海のサイレン』(2013)所収。(清水哲男)




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