元日から雨も雪も降らない東京地方。干上がりそうだな。(哲




2013ソスN1ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1012013

 目が見えて耳が聞こえて冬の森

                           山田露結

が多いのが森、森より木が少ないのが林。と小学校のときに漢字を習ったときに教わった覚えがある。本当のところはどうなのだろう。夏の間あんなにも生い茂っていた葉をすっかり落としてしまった冬の森、青空もあらわに、遠くの音もすぐ近くに聞こえる気がする。冬の澄み切った大気に五感も研ぎ澄まされ、自分の目が見えて、耳が聞こえることが今更のように意識される。目が見えて、耳が聞こえる主体は勿論人間である自分なのだろうが、森それ自体が耳をすまし目を見開いているようだ。冬の森と「わたし」の感受性が共鳴しているのだろう。森の中には冷たい大気のように腹を空かせた猛禽類もいて聞き耳をたてているかもしれない。と勝手な想像はどんどん膨らんでゆく。「歩道橋より氷海を見下ろせる」「あゝこれも中古(ちゅうぶる)の夢瀧涸るる」『ホームスイートホーム』(2012)所収。(三宅やよい)


January 0912013

 日の暮れて羽子板をはむ犬のあり

                           草野心平

子板市は十二月だが、羽子板は新年のもの。もともと「胡鬼(こぎ)板」と呼ばれていたものが、室町時代から羽子板と呼ばれるようになったという。おもしろいことに、羽根をつくのは幼児が蚊に食われないためのおまじないだったそうだ。江戸期から役者の押し絵を貼った高価なものが出まわるようになった。雪国の子どもだった私などにとって、正月の羽根つきやコマ回し、凧あげなどはとても信じられない絵空ごとだった。一日中、羽根つきで遊んでいた子どもも、日暮れ時にはさすがにくたびれ飽いて家に帰ってしまったのだろうか。庭か空地に置いたままになっている羽子板に、犬が寄ってきて舐めたりかじったりして戯れている光景。それを心平はきっと、正月の酒に昼からほろ酔いの状態で見るともなく見て、微笑んでいるのだろう。酔ったときの心平さんのうれしげな表情が見えるようだ。才人だった心平に意外や俳句は少ないようで、『文人俳句歳時記』(1969)にはこの一句しか収録されていない。木山捷平の句に「誰かいな羽子板が生垣においてある」がある。詩人の俳句はいずれもさりげないというか、気負いがない。「羽子板の役者の顔はみな長し」(青邨)。なるほど。(八木忠栄)


January 0812013

 寒立馬雪横なぐり横なぐり

                           小圷健水

立馬(かんだちめ)は、青森県下北半島で放牧されている比較的小柄な馬である。南部馬を祖とした農耕馬で、気候と痩せた土地に順応する種として改良されてきた。「寒立」とは野生のカモシカなどが雪上を数日じっと動かぬ姿を呼ぶという。ずんぐりとした体躯に足元の安定した素朴な馬が、白い息のかたまりを吐きながら立つ群れはいかにも雄々しく、風土に適合している。しかし、どんなに厳寒のなかでも平気だと聞いても、寒風にたてがみをなぶらせ、たっぷりとしたまつげに雪を乗せている姿は、見るものに哀れを誘う。横なぐりの雪のなかで、身を隠す場所もなく、馬たちはひたすら立ち続け、春を待つのだ。同集には仔馬の姿も見られる。厳しい自然のなかの親子の情はひときわ熱く胸を打つ。〈風上の母に添ひゐる寒立馬 篠原 然〉、〈乳をのむ仔馬も雪にまみれをり 原田桂子〉「青林檎」(2012年冬号・19号)所載。(土肥あき子)




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