光もADSLも速さは不変。電話局に近いのでADSLも速かったのだ。(哲




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January 0912013

 日の暮れて羽子板をはむ犬のあり

                           草野心平

子板市は十二月だが、羽子板は新年のもの。もともと「胡鬼(こぎ)板」と呼ばれていたものが、室町時代から羽子板と呼ばれるようになったという。おもしろいことに、羽根をつくのは幼児が蚊に食われないためのおまじないだったそうだ。江戸期から役者の押し絵を貼った高価なものが出まわるようになった。雪国の子どもだった私などにとって、正月の羽根つきやコマ回し、凧あげなどはとても信じられない絵空ごとだった。一日中、羽根つきで遊んでいた子どもも、日暮れ時にはさすがにくたびれ飽いて家に帰ってしまったのだろうか。庭か空地に置いたままになっている羽子板に、犬が寄ってきて舐めたりかじったりして戯れている光景。それを心平はきっと、正月の酒に昼からほろ酔いの状態で見るともなく見て、微笑んでいるのだろう。酔ったときの心平さんのうれしげな表情が見えるようだ。才人だった心平に意外や俳句は少ないようで、『文人俳句歳時記』(1969)にはこの一句しか収録されていない。木山捷平の句に「誰かいな羽子板が生垣においてある」がある。詩人の俳句はいずれもさりげないというか、気負いがない。「羽子板の役者の顔はみな長し」(青邨)。なるほど。(八木忠栄)


January 0812013

 寒立馬雪横なぐり横なぐり

                           小圷健水

立馬(かんだちめ)は、青森県下北半島で放牧されている比較的小柄な馬である。南部馬を祖とした農耕馬で、気候と痩せた土地に順応する種として改良されてきた。「寒立」とは野生のカモシカなどが雪上を数日じっと動かぬ姿を呼ぶという。ずんぐりとした体躯に足元の安定した素朴な馬が、白い息のかたまりを吐きながら立つ群れはいかにも雄々しく、風土に適合している。しかし、どんなに厳寒のなかでも平気だと聞いても、寒風にたてがみをなぶらせ、たっぷりとしたまつげに雪を乗せている姿は、見るものに哀れを誘う。横なぐりの雪のなかで、身を隠す場所もなく、馬たちはひたすら立ち続け、春を待つのだ。同集には仔馬の姿も見られる。厳しい自然のなかの親子の情はひときわ熱く胸を打つ。〈風上の母に添ひゐる寒立馬 篠原 然〉、〈乳をのむ仔馬も雪にまみれをり 原田桂子〉「青林檎」(2012年冬号・19号)所載。(土肥あき子)


January 0712013

 不機嫌に樫の突つ立つ七日かな

                           熊谷愛子

語は「七日」で、一月七日のこと。習慣的に関東の松の内は七日まで(関西では十五日までとされているが、最近ではどうなのだろう)だから、今日で正月も正月気分もおしまいだ。多くの人にとって、正月は非日常に遊ぶ世界ではあるが、三が日を過ぎるあたりから、その非日常の世界を日常が侵食してくる。お節に飽きてきてカレーライスを食べたくなったり、ゴミの収集がはじまったりと、非日常が徐々に崩れてくる。同じ作者に「初夢の釘うつところ探しゐて」という句があり、ここでは早々に日常に侵入されてしまっている。客の多い家ともなると、主婦が非日常に遊ぶなんてことは不可能だ。それでもまあ、松の内という意識があるから、なんとなく七日くらいまでは正月気分をかき立てているわけだ。この句は、そんな気分で七日を迎えた主婦が、久しぶりに醒めた視線でまわりの景色を見渡したときの印象だろう。樫の木が不機嫌そうに立っているのが、目についた。なんだか人間どもの心理的物理的な落花狼藉の態を、ひややかに見つめつづけていたような雰囲気である。この樫の木の不機嫌も、やがては日常の中に溶けて消えてしまうのだが、今日七日のこのひんやりとした存在感は、特別に作者の心に突き刺さったのだった。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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