2013N18句(前日までの二句を含む)

January 0812013

 寒立馬雪横なぐり横なぐり

                           小圷健水

立馬(かんだちめ)は、青森県下北半島で放牧されている比較的小柄な馬である。南部馬を祖とした農耕馬で、気候と痩せた土地に順応する種として改良されてきた。「寒立」とは野生のカモシカなどが雪上を数日じっと動かぬ姿を呼ぶという。ずんぐりとした体躯に足元の安定した素朴な馬が、白い息のかたまりを吐きながら立つ群れはいかにも雄々しく、風土に適合している。しかし、どんなに厳寒のなかでも平気だと聞いても、寒風にたてがみをなぶらせ、たっぷりとしたまつげに雪を乗せている姿は、見るものに哀れを誘う。横なぐりの雪のなかで、身を隠す場所もなく、馬たちはひたすら立ち続け、春を待つのだ。同集には仔馬の姿も見られる。厳しい自然のなかの親子の情はひときわ熱く胸を打つ。〈風上の母に添ひゐる寒立馬 篠原 然〉、〈乳をのむ仔馬も雪にまみれをり 原田桂子〉「青林檎」(2012年冬号・19号)所載。(土肥あき子)


January 0712013

 不機嫌に樫の突つ立つ七日かな

                           熊谷愛子

語は「七日」で、一月七日のこと。習慣的に関東の松の内は七日まで(関西では十五日までとされているが、最近ではどうなのだろう)だから、今日で正月も正月気分もおしまいだ。多くの人にとって、正月は非日常に遊ぶ世界ではあるが、三が日を過ぎるあたりから、その非日常の世界を日常が侵食してくる。お節に飽きてきてカレーライスを食べたくなったり、ゴミの収集がはじまったりと、非日常が徐々に崩れてくる。同じ作者に「初夢の釘うつところ探しゐて」という句があり、ここでは早々に日常に侵入されてしまっている。客の多い家ともなると、主婦が非日常に遊ぶなんてことは不可能だ。それでもまあ、松の内という意識があるから、なんとなく七日くらいまでは正月気分をかき立てているわけだ。この句は、そんな気分で七日を迎えた主婦が、久しぶりに醒めた視線でまわりの景色を見渡したときの印象だろう。樫の木が不機嫌そうに立っているのが、目についた。なんだか人間どもの心理的物理的な落花狼藉の態を、ひややかに見つめつづけていたような雰囲気である。この樫の木の不機嫌も、やがては日常の中に溶けて消えてしまうのだが、今日七日のこのひんやりとした存在感は、特別に作者の心に突き刺さったのだった。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


January 0612013

 汝の年酒一升一升又一升

                           阿波野青畝

賀の客をもてなす座卓には、一升瓶が何本も立っています。燗をつけるなんぞは、まどろっこしい。茶碗酒、コップ酒の作者の若いお弟子さんたちが、うわばみのごとく、とぐろを巻いて年始めの無礼講に興じているところでしょうか。作者は、この座をこの一句で切り返そうとしているように読みますが、はたして酔客に真意が届いたかどうか。掲句は、李白の詩「山中ニテ幽人ト対酌ス」の一節、「 両人対酌スレバ山花開ク、一杯一杯復一杯」をふまえているでしょう。しかし、掲句の酔客たちは、一杯ではなく一升ときていますから、酒豪の大先輩李白の一節に思いを寄せる風もなかったでしょう。詩は、「我酔ウテ眠ラント欲ス、キミシバラク去レ」と続きますが、とぐろを巻いた大蛇たちが退散する様子は見られません。「一升一升又一升」は、エンドレスに続きます。句の師匠が、句の力でお弟子たちを動かそうとしていながら、それができないところに初笑いがあります。私事ですが、巳年の抱負は、とぐろを巻かない、くだを巻かない、とします。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(小笠原高志)




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