本年もご愛読ありがとうございました。佳いお年をお迎えください。(哲




2012ソスN12ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 31122012

 大晦日御免とばかり早寝せる

                           石塚友二

十一歳の秋に、ラジオのパーソナリティを仰せつかった。早朝番組だったので、以来三十有余年、早寝早起きの生活がつづいている。大晦日とて、例外ではない。この間、除夜の鐘も聞いたことがない。子どもの頃には、大晦日はいつまで起きていても叱られなかったから嬉しかったが、そんなことももう遠い思い出だ。作者が「御免」と言っている相手は、とくに誰かを指しているのではなく、遅くまで起きて年を守っている世間一般の人々に対してだろう。この気持ちは、なんとなくわかる。早寝しようが勝手ではあるものの、いささか世間の常識に外れているような気がして、ちと後ろめたいのである。だから一応、「御免」の気持ちで寝床にもぐり込むことになるのだ。孝子・フォン・ツェルセンという人の句に、「子の去りてすることもなし年の夜」がある。これは今宵の我が家そのもののありようである。そういうわけで、では、御免。みなさまがたには佳いお年をお迎えくださいますように。『合本・俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


December 30122012

 大晦日さだめなき世の定哉

                           井原西鶴

年もあと二日を残すところとなりました。政権が交代し、オリンピックでヒーロー・ヒロインが登場した反面、いまだ故郷に戻れない被災者も多く、昔も今も「さだめなき」無常の世であることに変わりはありません。掲句は、西鶴作『世間胸算用』を集約している句です。『世間胸算用』は、「大晦日は一日千金」というサブタイトルがついた二十からなる短編集です。江戸時代の売買は、帳面による掛売り掛買いがふつうで、大晦日は、そのツケの最終決済日でした。一種の紳士協定による信用取引が江戸の「定」ですから、暴力の行使は許されません。そのかわり、暴力以外のあらゆる秘術を尽くして借金取りから逃れ、かたや追いかけ、元旦というゲームセットまでの極限的な経済心理ゲームが繰り広げられています。たとえば、「亭主はどこだ、いつ帰るのだ」と急き立てる借金取りが凄んでいるところに、丁稚(でっち)が息せき切って帰り、「旦那様は大男四人に囲まれてあやめられました」と女房に伝えると、女房は驚き嘆き泣き騒ぐので、仕方なく件の借金取りは、ちりぢりに帰りました。ところで、女房も丁稚もケロリとしている。やがて、納戸に身を隠していた旦那がふるえながら出てくる、といった落語のような狂言仕立てです。平成の現代は、元禄の「定」とは大いに違います。それでも、大晦日は特別な日であることに変わりはなく、入金を済ませたり、仕事納めをしたり、賀状を書きあげたり、大掃除・整理整頓、何らかのけじめをつけて、新年を迎えようとする心持ちに変わりない定めがあるように思われます。今年一年、お世話になりました。よいお年をお迎えください。なお、掲句の「さだめ・定」の表記はいくつかの本で異なりますが、今回は、『井原西鶴集 三』(小学館)巻頭に載っている短冊によりました。(小笠原高志)


December 29122012

 好きな人かぞへきれなく日向ぼこ

                           國弘賢治

自由な体で外出もままならなかった作者にとって、日向ぼこりは楽しみのひとつであったことだろう、これを引いた『賢治句集』(1991)にも何句か遺されている。〈ひらきみる手相かゞやく日向ぼこ〉〈ガマグチの中までぬくく日向ぼこ〉いずれも冬の日差しに包まれて心地よい。中でも掲出句、この作者の「好き」は、心からただ好き、であり、そこが好きだ。ちょうど今頃、今年ももうすぐ終わりだなあ、と思いながらあれこれ一年をふり返っているのではないか。そんな時、好きな人が数え切れない、と素直に言えるのが賢治らしい。亡くなる年には〈涙の頬すぐにかわきし日向ぼこ〉もあるが、作者の笑顔が浮かんでくればそれでよい。俳句を始めてから人間について悩み考えることが増えた、などと思っている自分を省みつつ今年最後の一句。(今井肖子)




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