漢字の日。「いい(1)じ(2)いち(1)じ(2)」(いい字1字)の語呂合せ。(哲




2012ソスN12ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 12122012

 貰ひ湯の礼に提げゆく葱一把

                           伊藤桂一

はすっかり見られなくなったようだけれど、以前は「貰い湯」という風習があった。やかんやポットのお湯をいただきに行くのではなく、「もらい風呂」である。私も子どもの頃、親に連れられて近所の親戚へ「もらい」に行った経験が何回かあるし、逆に親戚の者が「もらい」にやってきたこともある。そんなとき親たちはお茶を飲みながら世間話をしているが、子供はそこのうちの子と、公然としばし夜遊びができるのがうれしかった。掲句は農家であろうか、手ぶらで行くのは気がひけるから、台所にあった葱を提げて行くというのである。とりあえず油揚げを三枚ほど持ってとか、果物を少し持って、ということもあった。葱を提げて行くという姿が目に見えるようだ。そこには文字通り温まるコミュニケーションが成立していた。桂一は九十五歳。作家や詩人たちの会の集まりに今もマメに出席されていて、高齢を微塵も感じさせない人である。京都の落柿舎の庵主をつとめるなど、長いこと俳句ともかかわってきた人であり、長年にわたって書かれた俳句が一冊にまとめられた。他に「日照り雨(そばえ)降る毎にこの世はよみがへる」「霜晴れて葱みな露を誕みゐたり」などがある。『日照り雨』(2012)所収。(八木忠栄)


December 11122012

 世の中は夕飯時や石蕗の花

                           篠原嬉々

と「時分どき」という言葉を懐かしく思い出した。お隣に回覧板を回すのも、友人に電話をするのも「時分どきだから失礼になる」などと使っていた。広辞苑では「ころあいの時。特に食事の時刻についていう」とあるが、現在ではあまり使われていないようだ。時分は朝昼夕の区別がないが、掲句は夕飯時とある以上、午後6時〜8時くらいの間だろうか。冬の日はすっかり落ち、それぞれの家の夕飯の匂いやにぎわいを漂わせている頃である。気ままな一人者を気取っていた時代には、なんとなく疎外感を覚え世間様にほんの少し拗ねてみたくなる時間帯だった。掲句は「世の中」と大げさに切り取ったことで、自身の嘆きをまたさらに眺めているような距離感が生まれ、深刻さを遠ざけた。それでも、路地に咲く石蕗の黄色が今日はやけに目にしみる。〈しばらくは流るる顔になりて鴨〉〈年の市より鳥籠を提げ来たる〉『踊子』(2012)所収。(土肥あき子)


December 10122012

 風呂吹や曾て練馬に雪の不二

                           水原秋桜子

うもこの作者は、一句を美々しい絵のように仕立てるのが趣味のようだ。それが悪いというのではないが、私の口にはあまりあわない。この句の勝負どころは、風呂吹(大根)から大根の産地として有名な練馬を連想するところまでは通俗的でどうということはないけれど、後半に何を配するかにかかってくる。私なら通俗ついでに「恋ひとつ」とでもやりたいところだが、秋桜子は大根の白さを「不二(富士)」にまで押し通したつもりか、曾て(かつて)は見えていた雪化粧の富士山を据えている。ここで私には富士山よりも、作者の「どうだ」といわんばかりの顔までが見えるようで鼻白んでしまう。駄句とまでは言わないが、これではせっかくの風呂吹にまつわる人間臭さが飛んでしまっている。つまり、せっかくの風呂吹の味がどこかに失せているのだ。美々しい絵はそれなりに嫌いではないけれど、私は人間臭さの出ている絵のほうが、どうもよほど好きなようである。蟇目良雨『平成 食の歳時記』(2009)所載。(清水哲男)




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