除夜の鐘まであと三週間。師走を実感する日々がつづきそうだ。(哲




2012ソスN12ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 10122012

 風呂吹や曾て練馬に雪の不二

                           水原秋桜子

うもこの作者は、一句を美々しい絵のように仕立てるのが趣味のようだ。それが悪いというのではないが、私の口にはあまりあわない。この句の勝負どころは、風呂吹(大根)から大根の産地として有名な練馬を連想するところまでは通俗的でどうということはないけれど、後半に何を配するかにかかってくる。私なら通俗ついでに「恋ひとつ」とでもやりたいところだが、秋桜子は大根の白さを「不二(富士)」にまで押し通したつもりか、曾て(かつて)は見えていた雪化粧の富士山を据えている。ここで私には富士山よりも、作者の「どうだ」といわんばかりの顔までが見えるようで鼻白んでしまう。駄句とまでは言わないが、これではせっかくの風呂吹にまつわる人間臭さが飛んでしまっている。つまり、せっかくの風呂吹の味がどこかに失せているのだ。美々しい絵はそれなりに嫌いではないけれど、私は人間臭さの出ている絵のほうが、どうもよほど好きなようである。蟇目良雨『平成 食の歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


December 09122012

 寒の月川風岩をけづるかな

                           三浦樗良

景の句です。絵画的に読むなら、遠景の寒の月は、くっきり皓皓と描かれていて、中景の川風が、空間と流れをつくり、近景の岩は、量感を出しています。日本の絵画の特徴は、一点から風景を見定める遠近法よりも、個々の画題(モチーフ)に視点を置いて、じっくり眺めつくして描写するところにあります。空間的な遠近感によって風景に序列をつけるのではなく、画題一つ一つが公平なまなざしでとらえられていて、これはたぶん、幾何学的な方法からうまれた西洋絵画の遠近法とはまったく違ったものの見方を示していることになるのでしょう。掲句は、「花鳥風月」の中の生き物の要素を排して、一見、冬の荒涼とした寂寥感を漂わせています。それでも、ここには、川風が岩をけづる音に耳を傾け、冬を愉しむ作者のありようが感じられます。「寒の月」の静から、「川風岩をけづる」動へと句はうごき、皓皓とした光から、岩がけづれる噪音を冬の音楽として愉しんでいる様を読みます。ここにも、西洋音楽が楽音=音符を傾聴してきたのとは違った、閑寂の中に風物のささやかな音をとらえる日本の耳が示されているように思われます。作者樗良(ちょら)は、蕪村と親交があり、安永年間(1775年頃)、京都に定住したと伝えています。『近世俳句俳文集』(小学館)所載。(小笠原高志)


December 08122012

 枯木立ごしに電車の黄色かな

                           小沢薮柑子

の枯れ色の重なる先を、黄色い電車が通り過ぎてゆく。それだけの景なのだが、黄色かな、の措辞がおもしろくちょっととぼけたような印象もある。電車が走っているのは枯木立の続く向こう、やや遠くなのだろう。歩いていると動く物が視界に入り、あ、電車だ、と立ち止まる。色彩の乏しくなってきた風景の中、電車の黄色は冬日に明るさを増し、青空の下でまぶしく見えている。掲出句のある句集『商船旗』(2012)には、黄色かな、の句が〈えにしだの撒き散らしたる黄色かな〉〈無造作の反魂草の黄色かな〉と二句ある。花の黄色と電車の黄色、強い切れである、かな、の印象の違いをあらためて感じさせられた。(今井肖子)




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