気がつけば、十一月も半ば過ぎ。だんだん冬ごもりモードに。(哲




2012ソスN11ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 18112012

 犬より荒き少年の息冬すみれ

                           鍵和田秞子

七五の荒い息づかいが、冬すみれにふりかかっています。動物の吐く息を、冬すみれが浄化しているようです。朝か、夕方か、犬と少年か、少年だけか。犬と少年が、全速力で走って走って二筋の吐く息が冬すみれにかかっている。それは、紫に白い二筋の雲が流れているように情景的です。もう一つ。少年だけならば、走って走って走り抜いて、一頭の犬以上になって荒く深く濃い息を冬すみれの紫に吐いている。これもありえます。犬と少年を読みとる人、少年だけを読みとる人、それぞれですが、作者はどうなのでしょう。犬と少年の世界なら親和的ですし、少年だけなら、この少年は、ヒトであることを突き抜けて生き物としての息を冬すみれに乞うている姿のようにも見えてきます。走って走って走り尽くすと、腹がへる前に息が足りなくなる。冬すみれの紫を、動物に息を与える植物の象徴として読むと、そのたたずまいのけなげさがいとおしくなります。「四季花ごよみ・冬」(1988・講談社)所載。(小笠原高志)

お断り】作者名、正しくは「禾(のぎへん)」に「由」です。


November 17112012

 さざんくわや明日には明日を悦べる

                           小池康生

茶花のひたすらな咲きぶりはよく句になっているし、この花を見れば丸く散り敷いている地面に目が行く。とにかく咲き続け散り続ける花、椿に似ているが散り方が違う、そしてどこか椿より物寂しい花。ただ、山茶花とはこういうものだ、という概念を頭に置きながらいくらじっと見続けても、なかなか「観る」には至らないだろう。この句の作者は山茶花の前に立ち、その姿を見ながらこの花の存在を無心で感じとって、何が心に生まれるか、じっと待っていた気がする。咲く、そして散る。それは昨日も今日も明日も、冷たくなってゆく風の中で淡々と続き、今日には今日の、明日には明日の、山茶花の姿がある。悦べる、ににじむ幸せは、生きていることを慈しむ気持ちでもあり、やわらかい心に生まれた一句と思う。『旧の渚』(2012)所収。(今井肖子)


November 16112012

 頸捩る白鳥に畏怖ダリ嫌ひ

                           佐藤鬼房

家や音楽家、詩人、小説家など芸術家の名前を用いる句は多い。その作家の一般的な特徴を通念として踏まえてそれに合うように詠うパターンが多い。例えば桜桃忌なら放蕩無頼のイメージか、はにかむ感じか、没落の名家のイメージか。そんなのはもう見飽きたな。「ダリ嫌ひ」は新しい。嫌ひな対象を挙げたところが新しいのだ。「ダリ嫌ひ」であることで何がわかるだろう。奇矯が嫌いなんだ鬼房はと思う。頸を捩る白鳥の視覚的風景だけで十分にシュールだ。この上何を奇矯に走ることがあろうか。現実を良く見なさい。ダリ以上にシュールではありませんか。鬼房はそういっている。『半迦坐』(1989)所収。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます