立冬ですね。来年三月までは寒いし、野球もないし、憂鬱だ。(哲




2012ソスN11ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 07112012

 何にても大根おろしの美しき

                           高橋順子

根を詠んだ句は多いし、「大根洗」「大根干す」などの季語もある。それだけ古くから、大根は私たち日本人の暮しにとって欠かせないものになっているというわけである。食料としてはナマでよし、煮てよし、炒めてよし、漬けてよしである。それにしても、「大根おろし」の句はあまり見かけない。簡単に食卓に並べられる大根おろし。その水気をたっぷり含んだ素朴さに、順子は今さらのようにその美しさを発見し、素直に驚いているのだ。下五を「美しさ」としたのでは間抜けな感嘆に終わってしまうけれど、「美しき」と結んだことで句としてきりっと締まり、テンションが上がった。食卓で主役になることはあり得ないけれど、「大根おろし」がないとどうしようもない日本のレシピはたくさんある。おろしには食欲も気持ちもさらりと洗われる思いがする。大根そのもののかたちは「美しき」とは必ずしも言えないけれど、おろしにすることによって、水分をたっぷり含んだ透明感があって雪のような純白さには、誰もが感嘆させられる。「美しき」とは「おいしさ/美味」をも意味しているのだろう。大根のあの辛味もなくてはならないもの。掲句には女性ならではの繊細な観察が生かされている。順子の他の句「しらうをは海のいろして生まれけり」にも、繊細で深い観察が生きている。『博奕好き』(1998)所収。(八木忠栄)


November 06112012

 活けられて女郎花とはさみしかり

                           橘いずみ

ロギクやイヌフグリなど、花の名には気の毒なものが見られるが、女郎花もそのひとつである。鮮やかな黄色でありながら、粟粒が集まったような控えめな花である。群生していてこその美しさもあり、一本折り取ると存在がことさら薄まってしまう。花瓶など花として活けられたときの所在なさはいかばかりか。女郎花といえば「紫式部日記」のなかで触れる女郎花の項の終わりかたはひときわ印象的だった。「その折はをかしきことの 過ぎぬれば忘るるもあるは いかなるぞ」、意訳すると「その時は興味をもっていたのに、時が経つと忘れてしまうものなのね」。花言葉は「約束を守る」。なんとも皮肉に思えるものの、これもまた時が経てば忘れてしまうのかもしれない。『燕』(2012)所収。(土肥あき子)


November 05112012

 逝くものは逝き巨きな世がのこる

                           藤木清子

の女流俳人と言われる人が二人いる。一人は敗戦後すぐに句集を出した鈴木しづ子で、もう一人がこの句の作者である藤木清子だ。彼女は日中戦争時代に、日野草城の「旗鑑」や「京大俳句」に句を寄せている。二人とも人目に触れる場所での活動期間は短く、いわば「一閃の光芒を放って消えた短距離ランナー」(宇多喜代子)であり、俳句をやめてからの消息は一切不明のままだ。清子に至っては、写真一枚すら残っていない。句の文字面の意味は明瞭だが、しかし、いまひとつ真意を捉えにくい句だ。それはおそらく「巨きな世」の指し示す世界が、現代の常識とは大きくずれているせいではないかと愚考する。戦前のあの時期で「巨きな世」といえば、たいていの人が思い浮かべたのは万世一系の天皇家を頂点とする「不滅の」世界だったろうからである。兵士などの逝くさだめの者は死んでいくのだけれど、巨きな世は永久に安泰である。皮肉でも風刺でなく、素朴にそういうことを言いたかったのではあるまいか。しかし現代的な感覚で読むと、皮肉が辛辣に利いていて、デスペレートな気分の作者像が浮かんでくる。逆に、この句から「万世一系」の世を思えと言われても、そうはまいらない。時代をへだてての句を読むのは難しい。そのサンプルのような句だと思った。宇多喜代子編著『ひとときの光芒・藤木清子全句集』(2012・沖積舎)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます