半袖など夏ものを片づけないうちに11月になってしまいました。(哲




2012ソスN11ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 01112012

 秋真昼島に一つの理髪店

                           鶴濱節子

わやかで透明感のある時間が「秋の昼」の本意だろうか。「本来春昼にたいして作られた季語で、まだ十分熟してはいない。」と平井照敏の「新歳時記」にはある。どのような過程を経て季語に取り入れられたのか詳しいことはわからない。「秋の昼妻の小留守をまもりけり」日野草城 「大鯉のぎいと廻りぬ秋の昼」岡井省二などが例句として載っている。掲句は「秋真昼」なのだからどんぴしゃピントがあってなおかつ非現実な静けさが感じられる。小さな島だとタクシーも一台、何でも置いてある雑貨屋も一軒なんて場所だろうか。とりわけ理髪店などは島の人もたまに利用するぐらいだろうから、店の主人も手持無沙汰にがらんとしているのかもしれない。そんな情景を思うとせかせかした都会とは違い静かに秋が深まってゆく島の時間が豊かに感じられる。『始祖鳥』(2012)所収。(三宅やよい)


October 31102012

 魂の破片ばかりや秋の雲

                           森村誠一

夏秋冬を通じて、さまざまな雲が空(そら)という広大なステージに、千変万化登場してくれる。見飽きることがない。それぞれの雲が生成される天文気象学的根拠などそっちのけで、私たちはただ見とれて楽しめばよろしい。雲をずっと追いかけている写真家もいるくらいである。天を覆うような壮大な鰯雲などではなく、点々と散らばる秋のちぎれ雲だろうか。それを「魂の破片」ととらえているのだから、不揃いで身勝手なちぎれ雲が、思い思いに浮かんで、動くともなく風でかすかに動いているのだろう。まともにまとまった立派な「魂」と言うよりも、ありふれた文字通り「破片ばかり」なのである。そんな魂を覗くように、作者はその「破片」にカメラを向けているのかもしれない。誠一はさかんに「写真俳句」に熱をあげていて、著作『写真俳句のすすめ』などもあるくらいだ。「俳句ほど読者から作者に容易になれる文芸はない」と書く。そう、たしかに小説や詩の作者になるのは、俳句に比べて「容易」ではない。ほかに「行く年を追いたる如くすれちがい」がある。『金子兜太の俳句塾』(2011)所載。(八木忠栄)


October 30102012

 野分来る櫓を漕ぐ音で竹撓る

                           嘴 朋子

六竹八塀十郎という言葉がある。樹は六月に、竹は八月を過ぎてから伐り、塀は十月に塗るのが望ましいという意味だ。それぞれに適した時期を先人はこうした語呂合わせで覚えていた。陰暦でいうので、竹はこれからが冬にかけてが伐りどきなのだ。郷里では茶畑も多いが、竹林も多かった。もっさりと葉を茂らせた竹が強風に煽られる姿は、婆娑羅髪を振り立てたようで恐ろしばかりだったが、葉擦れや空洞の幹が立てる音色はたしかに川の流れにも似て、竹の撓る音はぎいぎいと櫓を漕ぐがごとしであった。掲句のおかげで今まで乏しい想像力のなかで荒くれお化けだった景色が一変した。翡翠色の竹林の上を大きな舟がゆったりと渡っていくのだ。環境省が選んだ「残したい日本の音風景」には「奥入瀬の渓流」や「広瀬川の河鹿蛙」などとならび、「京の竹林」もエントリーしている。久しぶりに竹の音を聞いてみたくなった。〈弧を描く少女の側転涼新た〉〈短日のナース小さく風切つて〉『象の耳』(2012)所収。(土肥あき子)




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