涼しさを通り越して寒さが感じられるようになりました。ご用心。(哲




2012ソスN10ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 19102012

 誰彼もあらず一天自尊の秋

                           飯田蛇笏

名な句だ。蛇笏の臨終の句とも辞世の句とも言われている。一方で最後の句集の末尾に載っているのでそう言われているだけで単なる句集の配列でそうなったのだという説もある。解釈に於いてもさまざまあるようだ。自尊は蛇笏自身を言ったもので天に喩えて自らの矜持を詠んでいるという鑑賞もあるが、僕は、天=自分の喩えではなく天そのものを擬人法で捉えた句と読みたい。世事のあれこれはどうでもいいこと。天は天として自ずから厳然と超然と存在している。そんな秋である。というふうに。『蛇笏・龍太の山河』(2001)所収。(今井 聖)


October 18102012

 友の子に友の匂ひや梨しやりり

                           野口る理

の頃は赤ん坊や幼児を連れている若い母親を見かけることがほとんどない。子供の集まる場所へ縁がなくなったこともあるのだろう。乳離れしていない赤ん坊だと乳臭いだろうから、目鼻立ちも整い歩き始めた幼児ぐらいだろうか。ふっとよぎる匂いに身近にいた頃の友の匂いを感じたのだろう。中七を「や」で切った古風な文体だが、下五の「梨しやりり」が印象的。「匂い」の生暖かさとの対比に梨が持つ冷たい食感や手触りが際立つのだ。「虫の音や私も入れて私たち」「わたくしの瞳(め)になりたがつてゐる葡萄」おおむね平明な俳句の文体であるが、盛り込まれた言葉にこの作者ならではの感性が光っている。『俳コレ』所載。(三宅やよい)


October 17102012

 秋水の動くともなく動きけり

                           伊志井寛

ややかさを感じさせる「秋水」は、流れている川や湖の水とはかぎらない。井戸の水や洗面器に汲んだ水でもいいだろうが、秋の水ゆえに澄みきって、一段と透明に冷えてきている水である。名刀をたとえるのに「三尺の秋水」という言葉もあるようだ。掲句の「秋水」は「動くともなく」かすかに動いているのだから、川か池の水だろう。おそらく川の水が流れるともなく流れているさまを詠んだものだろう。「流れる」ではなく「動く」と詠んだところに、秋水をより生きたもののごとくとらえたかった作者の気持ちが感じられる。水は動きがないように見えてはいるけれど、秋の日ざしに浸るかのように、かすかにだが確実に流れている。それを見つめている作者の心にも、ゆったりした秋の時間が流れているようだ。せかせかしないで、秋は万事そうした気持ちでありたいものだと思うが、なかなか……。室生犀星の句に「秋水や蛇籠にふるふえびのひげ」がある。平井照敏編『新歳時記・秋』(1996)所収。(八木忠栄)




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