オスプレイが市街地上空で飛行訓練。完全になめられている。(哲




2012ソスN10ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 17102012

 秋水の動くともなく動きけり

                           伊志井寛

ややかさを感じさせる「秋水」は、流れている川や湖の水とはかぎらない。井戸の水や洗面器に汲んだ水でもいいだろうが、秋の水ゆえに澄みきって、一段と透明に冷えてきている水である。名刀をたとえるのに「三尺の秋水」という言葉もあるようだ。掲句の「秋水」は「動くともなく」かすかに動いているのだから、川か池の水だろう。おそらく川の水が流れるともなく流れているさまを詠んだものだろう。「流れる」ではなく「動く」と詠んだところに、秋水をより生きたもののごとくとらえたかった作者の気持ちが感じられる。水は動きがないように見えてはいるけれど、秋の日ざしに浸るかのように、かすかにだが確実に流れている。それを見つめている作者の心にも、ゆったりした秋の時間が流れているようだ。せかせかしないで、秋は万事そうした気持ちでありたいものだと思うが、なかなか……。室生犀星の句に「秋水や蛇籠にふるふえびのひげ」がある。平井照敏編『新歳時記・秋』(1996)所収。(八木忠栄)


October 16102012

 黄落や接吻解かぬロダンの像

                           小滝徹矢

ダンの「接吻」は上野の国立西洋美術館に収蔵されている。はじめ「地獄の門」に加わるはずだったが、情愛豊かで馥郁とした幸福感に包まれた作品は、男女が業火に苛まれる様相とかけ離れたため独立した作品となった。「世界でもっとも美しい」といわれるこの像をロダンは後年「美しいが何も得られなかった」と叙述している。「恋愛こそ生命の花である」と公言した作家は、アトリエで若い男女にこの通りのポーズをとらせ、恋人であったカミーユとともに制作に取り組んだ。永遠に接吻する像を完成させたのち、ロダンは妻のもとへと帰り、残されたカミーユは精神を病んでしまう。国立西洋美術館までは美しい銀杏並木があり、毎年見事な黄落を見せてくれる。天才の名を欲しいままにした芸術家の情熱と迫力を目の当たりにしたとき、人は魂を射貫かれたような感動を受ける。その喜びとも、畏怖とも言いつくせない曖昧な気持ちのまま美術館を後にすれば、途端に現実の色彩として銀杏の鮮やかな黄色が目に飛び込むのだ。その色は、行きに見た色とはきっと違って映ることだろう。『祇園囃子』(2012)所収。(土肥あき子)


October 15102012

 秋の海町の画家来て塗りつぶす

                           森田透石

者の気持ちは、とてもよくわかる。秋晴れの日ともなると、我が家の近所の井の頭公園にも、何人もの「画家」たちがやってきて描いてゆく。絵に関心はあるほうだから、描いている人の背後から、よくのぞき見をする。たいがいの人はとても巧いのだけど、巧いだけであって、物足りなさの残る人のほうが多い。でも、なかには写実的でない絵を描く人もいて、巧いのかどうかはわからないが、大胆なタッチの人が多いようだ。作者が見かけたのも、そんな「町の画家」なのだろう。海の繊細な表情などはお構いなしに、あっという間に一色で塗りつぶしてしまった。ぜんぜん違うじゃないか。愛する地元の海が、こんなふうに描かれるとは。いや、こんな乱暴に描かれるのには納得がいかない。さながら自宅に土足で踏み込まれたような、いやーな感じになってしまった。この海のことなどなんにも知らない「町場」の他所者めがと、しばし怒りが収まらなかったに相違ない。まっこと、ゲージュツは難しいですなあ。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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