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2012ソスN10ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 11102012

 鳥威し雨に沈みてゐるもあり

                           波多野爽波

ちこちの田んぼではもう稲刈りは終わっただろうか。金色に垂れる稲穂を雀などから守るためにピカピカ光る鳥威しが田んぼのあちこちに結わえられている。そのうちの一つが雨に打たれて落ち、そのまま水たまりに浸かっているのだろうか。濡れそぼつ鳥威しがなまなましく感じられる。「鳥威し」が空中にひるがえり鳥を威嚇するものという概念に囚われていると見いだせない現実だ。眼前にある対象を描写しただけに思えるこのような句について語るのは難しいが、そんなとき「無内容、無思想な空虚な壺に水のように注がれて初めて匂い出て来るもの」と言った山本健吉の言葉をふと思い出す。「日本大歳時記」(1985)所載。(三宅やよい)


October 10102012

 志望校東京芸大赤蜻蛉

                           向坂 穣

年はオトナばかりでなく、小中学生もさかんに俳句を作っていることは周知の通り。うちの孫(小学生)も「こんな俳句つくったよ……」と言って、いくつも披露してくれることがあって、慌ててしまう。あな、おそろしや。さて、高校生の俳句大会と言えば、恒例になった「俳句甲子園」である。今井聖によると「神奈川大学全国高校生俳句大会」も大きい大会だという。各地に各種の大会があるようだ。上記二つの大会で高い評価を得た句に「夏雲や生き残るとは生きること(佐々木達也)」とか「未来もう来ているのかも蝸牛(菅千華子)」などがあるようだ。いずれも偏差値の高い高校の生徒の句だという。うーん、私に言わせれば、一言「若いくせに、嘆かわしい!」。そこへいくと掲句は、いかにも受験生らしい気持ちが素直に表現されていて、好もしい。受験を控えた一度限りの切実な青春句だが、この場合「赤蜻蛉」が救いになっている。赤蜻蛉にこだわっているところからすると、彼は芸大の美術学部あたりを志望していたのかーーそんなことまで想像させてくれる。若い緊張感と不安が赤蜻蛉を見るともなく見ているようだし、赤蜻蛉も合格を応援して視界を飛んでいるのかもしれない。今井聖『部活で俳句』(2012)所載。(八木忠栄)


October 09102012

 朝刊に夕刊重ね鳥わたる

                           峯尾文世

ンターネットの普及により新聞の発行部数は年々下降しているというが、真新しい新聞を開く心地よさは個人的には手放せない。朝刊、夕刊、そしてまた朝刊。掲句は日々の積み重ねが新聞の嵩となり、時間の流れを目に見えるかたちで想像させる。朝夕変化する世界情勢や、喜怒哀楽を含めた事件が盛り込まれた新聞は、脆弱な人間社会を凝縮しているものだ。秋に渡る鳥は、昼間の暑さを避けるため、夜間に飛行する種が多い。星の位置や、地磁気で方位を定め、昔から同じように旅を繰り返している。鳥たちが幾世代に渡ってつちかってきた思慮深さに引きかえ、人間はなんと愚かな行為を繰り返しているのだろう。今朝も胸ふたぐニュースが飛び込む。振り切るように新聞をめくれば、それは思いがけず鳥のはばたきにも似た音を立てるのだった。〈打つよりも引く波音のはつむかし〉〈秋晴れが鏡のなかにしか見えぬ〉『街のさざなみ』(2012)所収。(土肥あき子)




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