無人島の領有権をめぐって熱くなる心情がよくわかりません。(哲




2012ソスN9ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1592012

 秋風や長方形の空っぽで

                           中村十朗

日休暇を終えて東京に戻り久しぶりに街を歩いた時、なんでも四角いなあ、と思ったのを思い出した。人の手で作られたものの形の中に一番多く見られるのが長方形だ。この句の長方形、最初に浮かんだのは空き地。あれ、ここ何が建ってたっけ・・・更地になった空間を前に、記憶を手繰り寄せるが思い出せない、草の花が風に揺れているばかりだ。そう大きくはない喪失感と共に、ただぼんやり吹かれているには秋風がふさわしい。そして、空っぽの長方形はさまざまな想像をかきたてる。何も描かれていない紙、さっきまで何かのっかっていた皿、お湯をぬいてしまったバスタブの底、真っ黒な画面。取り残された長方形は、静かに満たされるのを待っている。俳誌「や」(2012・冬号)所載。(今井肖子)


September 1492012

 滝の上深作欣二の叫び声

                           秋山巳之流

者は人の名前を詠みこんだ挨拶句を多く作った。俳句の本質は挨拶にありと思っていたのかもしれない。俳句は個人的なものだと思っていたのかもしれない。多くの挨拶句の中で僕はこの句が好きだ。深作は映画「仁義なき戦い」、「バトル・ロワイヤル」の監督。前立腺癌がわかったとき性機能が失われると言われて手術を拒否した人。ブルーハーツが好きで葬儀で「1001のバイオリン」を流すようにと遺言した人。その人が滝の上で何か叫んでいる。滝の轟音と重なって何を叫んでいるのかわからないような絶叫のイメージだ。そういえば巳之流さんも同じ時期、癌との闘病中だったのだ。『秋山巳之流全句集』(2012)所収。(今井 聖)


September 1392012

 招き招ける手はからくりの秋扇

                           森田 雄

さのぶり返しに備えて、仕舞わずに身の傍らに置いている秋扇。無用のものに名残の名前をつける、いかにも俳句らしい季語だと思う。一読、扇を持っておいでおいでと招き寄せているように思うが、招いているのは扇ではなく手。繁華街でキャバレーの呼び込みなどやっているが、あの手の動きだろうか。多分この「秋扇」は無用のもの、時期を過ぎたものという意味的な働きを強調するため置かれているのだろう。理に落ちた見方かもしれないが、季語の情緒的な要素を破壊するため置かれているとも思える。人を迎え入れる心もないのにひらひら人を招き寄せる手。異物化された手がからくり仕掛けの扇となって動くイメージは「秋扇」の語の醸し出す空しさと重なって忘れられない印象が残る。第2次「未定」(2012年94号)所載。(三宅やよい)




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