September 132012
招き招ける手はからくりの秋扇
森田 雄
暑さのぶり返しに備えて、仕舞わずに身の傍らに置いている秋扇。無用のものに名残の名前をつける、いかにも俳句らしい季語だと思う。一読、扇を持っておいでおいでと招き寄せているように思うが、招いているのは扇ではなく手。繁華街でキャバレーの呼び込みなどやっているが、あの手の動きだろうか。多分この「秋扇」は無用のもの、時期を過ぎたものという意味的な働きを強調するため置かれているのだろう。理に落ちた見方かもしれないが、季語の情緒的な要素を破壊するため置かれているとも思える。人を迎え入れる心もないのにひらひら人を招き寄せる手。異物化された手がからくり仕掛けの扇となって動くイメージは「秋扇」の語の醸し出す空しさと重なって忘れられない印象が残る。第2次「未定」(2012年94号)所載。(三宅やよい)
September 122012
嘘すこしコスモスすこし揺れにけり
三井葉子
世間に「大嘘つき」と陰口をたたかれる人はいる。タチの悪い厄介者と言ってしまえばそれまでだが、落語に出てくる「弥次郎」に似て、嘘もどこやらほほえましいと私には思われる。けれども「嘘すこし」には、別の意味のあやしいワルの気配がただようと同時に、何かしらうっすらと色気さえただよってこないか。風に少々揺れるコスモスからも、儚い色香までがかすかに匂ってくるようである。この場合の「コスモス」には女人の影がちらほら見え隠れしているようであり、女人をコスモスに重ねてしまってもかまわないだろう。作者には案外そんな含みもあったのかも知れない。コスモスには儚さも感じられるけれど、見かけによらず、倒されても立ちあがってくる勁さをもった花である。「すこし」のくり返しが微妙なズレを生み出していておもしろい。掲句は、前の句集『桃』(2005)につづく『栗』(2012)の冒頭に掲げられた句である。葉子はあとがきで「桃栗三年柿八年。柚子の大馬鹿十三年」と書き、「バカの柚子になる訳には行かないだろう」と書いている。他に「〈〉鳴く虫にやはらかく立つ猫の耳〈〉」など、繊細な世界を展開している。(八木忠栄)
September 112012
河童の仕業とは秋水のふと濁り
福井隆子
前詞に「遠野」とある。ざんばら髪で赤い顔といわれる遠野の河童は、飢饉のむかし、川に捨てられた幼い子どもたちが成仏できずに悪さをしているという伝承もある。土地の語り部の話を聞くともなしに聞く視線の先に、川の水がふと濁っているのを見つける。信じるも信じないもない話だが、信じてあげたいような気持ちにもなる。哀れな運命をたどった子どもは確かに存在したのだろう。そして、それをしなければならなかった親たちも。時を越えて同じ水辺に立ち、同じ木漏れ日のなかで、強引に伝わってくるものがある。それは悲しみとも、恨みとも言いようのない、ただひたすら「ふと」感じるなにかである。河童といわれるものの正体は背格好といい、相撲を取るような習性といい、もっとも有力だといわれてきたカワウソも、先日絶滅が報じられた。心の重荷をときに軽くし、あるいは決して忘れることのないよう河童伝説にひと役かっていた芸達者が消えてしまったとは、なんともさびしいことである。〈秋天に開き秋天色の玻璃〉〈秋口のものを煮てゐる火色かな〉『手毬唄』(2012)所収。(土肥あき子)
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