利根川水系ダムからの取水制限がはじまった。神頼みしかないか。(哲




2012ソスN9ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1292012

 嘘すこしコスモスすこし揺れにけり

                           三井葉子

間に「大嘘つき」と陰口をたたかれる人はいる。タチの悪い厄介者と言ってしまえばそれまでだが、落語に出てくる「弥次郎」に似て、嘘もどこやらほほえましいと私には思われる。けれども「嘘すこし」には、別の意味のあやしいワルの気配がただようと同時に、何かしらうっすらと色気さえただよってこないか。風に少々揺れるコスモスからも、儚い色香までがかすかに匂ってくるようである。この場合の「コスモス」には女人の影がちらほら見え隠れしているようであり、女人をコスモスに重ねてしまってもかまわないだろう。作者には案外そんな含みもあったのかも知れない。コスモスには儚さも感じられるけれど、見かけによらず、倒されても立ちあがってくる勁さをもった花である。「すこし」のくり返しが微妙なズレを生み出していておもしろい。掲句は、前の句集『桃』(2005)につづく『栗』(2012)の冒頭に掲げられた句である。葉子はあとがきで「桃栗三年柿八年。柚子の大馬鹿十三年」と書き、「バカの柚子になる訳には行かないだろう」と書いている。他に「〈〉鳴く虫にやはらかく立つ猫の耳〈〉」など、繊細な世界を展開している。(八木忠栄)


September 1192012

 河童の仕業とは秋水のふと濁り

                           福井隆子

詞に「遠野」とある。ざんばら髪で赤い顔といわれる遠野の河童は、飢饉のむかし、川に捨てられた幼い子どもたちが成仏できずに悪さをしているという伝承もある。土地の語り部の話を聞くともなしに聞く視線の先に、川の水がふと濁っているのを見つける。信じるも信じないもない話だが、信じてあげたいような気持ちにもなる。哀れな運命をたどった子どもは確かに存在したのだろう。そして、それをしなければならなかった親たちも。時を越えて同じ水辺に立ち、同じ木漏れ日のなかで、強引に伝わってくるものがある。それは悲しみとも、恨みとも言いようのない、ただひたすら「ふと」感じるなにかである。河童といわれるものの正体は背格好といい、相撲を取るような習性といい、もっとも有力だといわれてきたカワウソも、先日絶滅が報じられた。心の重荷をときに軽くし、あるいは決して忘れることのないよう河童伝説にひと役かっていた芸達者が消えてしまったとは、なんともさびしいことである。〈秋天に開き秋天色の玻璃〉〈秋口のものを煮てゐる火色かな〉『手毬唄』(2012)所収。(土肥あき子)


September 1092012

 数珠玉やかごめの鬼が嫁にゆく

                           高橋酔月

の便りに、幼なじみの女の子が結婚すると聞いたのだろう。子どもの頃は毎日のように一緒に遊んでいても、女の子たちとはいつしか疎遠になり、やがては面影すらも定かではなくなったりする。それが何かの拍子に消息を聞くことがあると、急に懐かしくなって記憶の糸をたどることになる。どんな子だったっけ。この子の場合には「かごめ遊び」の記憶がよみがえってきた。「かごめ、かごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる。夜明けの晩に、鶴と亀が滑った。後ろの正面、だあれ?」というあれだ。そして思い出してみれば、この子の役割はいつも「鬼」だったような……。つまり、あまり機転の利かない子、はしこく無い子で、覚えているのは輪の真ん中でかがんで両目を押さえている姿ばかりだ。その彼女が嫁に行くという。成人し様子は知る由もないけれど、結婚するのだから、もはや昔の彼女ではありえない。当人だって、もうかごめの鬼のことなど忘れているだろう。他人事ながら「良かったなあ」と、作者は微笑している。「サチオオカレ」と祈っている。「数珠玉」も当時の遊び道具だったが、ちょっとだけ作者の祈りも籠められているようだ。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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