映画『カルロス』を見たいが5時間30分もかかるので、逡巡中。(哲




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September 1192012

 河童の仕業とは秋水のふと濁り

                           福井隆子

詞に「遠野」とある。ざんばら髪で赤い顔といわれる遠野の河童は、飢饉のむかし、川に捨てられた幼い子どもたちが成仏できずに悪さをしているという伝承もある。土地の語り部の話を聞くともなしに聞く視線の先に、川の水がふと濁っているのを見つける。信じるも信じないもない話だが、信じてあげたいような気持ちにもなる。哀れな運命をたどった子どもは確かに存在したのだろう。そして、それをしなければならなかった親たちも。時を越えて同じ水辺に立ち、同じ木漏れ日のなかで、強引に伝わってくるものがある。それは悲しみとも、恨みとも言いようのない、ただひたすら「ふと」感じるなにかである。河童といわれるものの正体は背格好といい、相撲を取るような習性といい、もっとも有力だといわれてきたカワウソも、先日絶滅が報じられた。心の重荷をときに軽くし、あるいは決して忘れることのないよう河童伝説にひと役かっていた芸達者が消えてしまったとは、なんともさびしいことである。〈秋天に開き秋天色の玻璃〉〈秋口のものを煮てゐる火色かな〉『手毬唄』(2012)所収。(土肥あき子)


September 1092012

 数珠玉やかごめの鬼が嫁にゆく

                           高橋酔月

の便りに、幼なじみの女の子が結婚すると聞いたのだろう。子どもの頃は毎日のように一緒に遊んでいても、女の子たちとはいつしか疎遠になり、やがては面影すらも定かではなくなったりする。それが何かの拍子に消息を聞くことがあると、急に懐かしくなって記憶の糸をたどることになる。どんな子だったっけ。この子の場合には「かごめ遊び」の記憶がよみがえってきた。「かごめ、かごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる。夜明けの晩に、鶴と亀が滑った。後ろの正面、だあれ?」というあれだ。そして思い出してみれば、この子の役割はいつも「鬼」だったような……。つまり、あまり機転の利かない子、はしこく無い子で、覚えているのは輪の真ん中でかがんで両目を押さえている姿ばかりだ。その彼女が嫁に行くという。成人し様子は知る由もないけれど、結婚するのだから、もはや昔の彼女ではありえない。当人だって、もうかごめの鬼のことなど忘れているだろう。他人事ながら「良かったなあ」と、作者は微笑している。「サチオオカレ」と祈っている。「数珠玉」も当時の遊び道具だったが、ちょっとだけ作者の祈りも籠められているようだ。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


September 0992012

 虫鳴いて裏町の闇やはらかし

                           楠本憲吉

の仲間と別れ、表通りをほろ酔い気分で歩いている。虫の音に誘われて、裏町に足を踏み入れると、闇は濃くやわらかい。この裏町には、私ひとりを招き入れてくれる隠れ家がありそうだ。裏町には人も棲んでいて、鉢植えもあるので、虫の寝床もあります。裏町の路地は、海でいうならカニやヤドカリが棲息できる入り江や磯に似て、表の世界で疲れたり、傷ついたりした男たちが、身をやすめに来られるところです。日本の都市の多くは、表通りと裏通りが平行しています。表通りが広い車道のオフィスビル街なのに対して、裏通りは車の入りにくい商店街や飲食街、それに民家も続いていて、都市のにぎわいを形成しています。たとえば銀座なら、昭和通りに平行し交わる路地は数十を越えますし、大阪なら、御堂筋に平行する心斎橋筋に活気があります。たぶん、街を楽しむということは、歩くことを楽しむということで、そのとき、虫の音や、闇のやわらかさを肌で感じとれるということなのでしょう。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)




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