いちばん近い本屋さん。消えている文字には何と書いてあるのか。(哲




2012ソスN9ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0792012

 みづうみに盆来る老の胸乳かな

                           大峯あきら

い句。みづうみと盆と老を並べたところであらかた想像できる類型的な俳諧趣味を胸乳で見事に裏切り人間臭い一句となった。老と盆は近しい関係。なぜなら老はもうすぐ彼岸にいく定めだから。その老についている乳房は子供を産んで育てた痕跡である。産んで老いて彼岸に行く。そんな巡りを静かに肯定している。この肯定感こそ虚子が言った極楽の文学だ。『鳥道』(1981)所収。(今井 聖)


September 0692012

 路地の露滂沱たる日も仕事なし

                           下村槐太

日は白露。日差しはまだまだ厳しいが朝晩は少し涼しくなってきた。昔は大通りの一本裏手に入れば雑草の生い茂る空き地がひょいとあったものだ。まるで涙をたたえるように道そばの草に透明な露が光る。失業してあてどもない身に、あふれんばかりに露を宿した草が圧倒的な勢いで迫ってくる。同時期に作られた失業俳句でも冨澤赤黄男の「美しきネオンの中に失職せり」は職を辞した直後の解放感や高揚感が華やかな孤独となって一句を彩っているようだ。仕事にありつけぬ日々が続けば暮らしは立ちゆかない。あてどない生活の重さが我が身にのしかかってくる。赤黄男の句に較べ槐太の句には生活の重圧と焦燥感が感じられる。作者は職業だけでなく俳句においても流転の人生を歩んだ人だった。「俳句研究」(1976)所載。(三宅やよい)


September 0592012

 天の川の下に残れる一寺かな

                           永田青嵐

詞に「浅草寺」とある。おっとりと左に浅草寺を見て、右に東京スカイツリーを眺望しているという、今どきの呑気な図ではない。「一寺」は関東大震災後の焦土のなかに、どっかりと残った浅草寺のことなのだ。掲句は「震災雑詠」として大正13年「ホトトギス」に34句発表されたなかの一句。大震災後の暗澹とした精神にとって、夜空に悠揚と横たわる天の川は恨めしくも、またどこかしら気持ちのうえで救いになっていたのかもしれない。天変地異の後にあっても、天の川は何事もなかったかのように流れている。「残れる一寺」もせめてもの救いであろう。しかも作者青嵐は、大正12年の関東大震災当時の東京市長だった。未曾有の大被災を蒙った地の首長として、雑泳にこめられた感慨はいかばかりだったか。もちろん俳人然として惨状をただ詠んでいたのではなく、復興作業の陣頭で奔走していた。ところで、「3.11」の復興に奔走しながら、詩歌をひそかに心に刻んだ今どきの首長はいたのだろうか? 都知事は何と言ったか! 青嵐(秀次郎)は東京市長を二期つとめ、68年の生涯に2万句を残した。多産の役人俳人だった。他に「震災忌我に古りゆく月日かな」がある。加藤郁乎『俳の山なみ』(2009)所載。(八木忠栄)




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