東京地方は大気の状態が不安定。突然、ジャバーッと降ってくる。(哲




2012ソスN9ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0292012

 月の出や総立ちとなる松林

                           徳永山冬子

の出を、松林が総立ちとなって迎えています。日の出をみることはあっても、月の出をみるのは稀です。さて、この月は、海から出たのか、山から出たのか、それとも他か。松林とあるので、三保の松原のような海辺の情景として読んでみたいです。もしそうならば、作者は、月の出をみるために、展望のよい宿の上階に部屋を用意したのではないでしょうか。東の水平線がよくみえる、海辺の宿です。これで、掲句を成立させるための空間的条件は整いました。もう一つ、時間的な条件です。松林が総立ちになるためには、いったん日が没して、闇の時間が必要になります。たとえば、本日、2012年9月2日の東京の日没は、18:07分、月の出は、18:44分。いい感じです。残念ながら満月は一昨日でしたが、それでも、日没から月の出までの37分間、夕暮れから夕闇へ、夕闇から夜の帳(とばり)が降りはじめるころに、月は突然現れます。月の出は、たぶん、突然やってくる。夜明け前はあるけれど、月の出前は、ほとんどない。動的な太陽光に比べて、月光は限りなく静かだからです。それまで、闇に包まれ、帳の降りた松林に、突然、海から月が昇って、松林は月光を浴びて立ちあがります。その動きは、かなり速い。朝礼の起立のように「おはよう」と言っています。月の出は、夜の朝の始まりです。太陽の光を受けて月は輝き、光合成で松林は生い繁る。太陽が沈んだその裏側で、その光は、静かに動き出しました。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)


September 0192012

 無用のことせぬ妻をりて秋暑し

                           星野麥丘人

月はまだ仕方ないとして、九月になるともうそろそろ勘弁してほしい、と思う残暑、今年はまた一段と厳しい。朝晩凌ぎやすくなってきたとはいっても、ひと夏の疲れが溜まった身にはこたえるものだがそんな日中、暑い暑いと言うでもなく、気がつけば少し離れてじっと座って小さい手仕事などしている妻。無用なことをしてばたばたと動き回っている方がよほど暑苦しいわけだが、逆にじっとしているさまが、残る暑さのじんわりとした感じをうつし出している。おい、と言いかけるけれど、ご自分でできることはなさって下さいな光線が出ているのかもしれない。麦茶の一杯でも、と厨に立つ作者の後ろ姿も浮かんでくるようだ。『新日本大歳時記・秋』(1999・講談社)。(今井肖子)


August 3182012

 秋草や妻の形見の犬も老い

                           本井 英

句といえど自己表現なんだから他者と自己との識別をこころがけていくべきだ云々、僕が口角泡を飛ばして言ったとき聞いていた本井さんがぽつりと言った。「あなたは自己、自己っていうけど人はやがてみんな死ぬんだよ」。本井さんは少し前に奥方を亡くされていたのだった。死生観を踏まえての俳句の独自性を彼は「虚子」の中に見出した。平明で秋草という季節の本意もまことに生かされている。妻は泉下に入り犬は老い秋はまた巡ってきた。俳句の身の丈に合った述懐であることはよくわかる。この句はこれでいい、しかしと僕は言いたいのだが。『八月』(2009)所収。(今井 聖)




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