September 012012
無用のことせぬ妻をりて秋暑し
星野麥丘人
八月はまだ仕方ないとして、九月になるともうそろそろ勘弁してほしい、と思う残暑、今年はまた一段と厳しい。朝晩凌ぎやすくなってきたとはいっても、ひと夏の疲れが溜まった身にはこたえるものだがそんな日中、暑い暑いと言うでもなく、気がつけば少し離れてじっと座って小さい手仕事などしている妻。無用なことをしてばたばたと動き回っている方がよほど暑苦しいわけだが、逆にじっとしているさまが、残る暑さのじんわりとした感じをうつし出している。おい、と言いかけるけれど、ご自分でできることはなさって下さいな光線が出ているのかもしれない。麦茶の一杯でも、と厨に立つ作者の後ろ姿も浮かんでくるようだ。『新日本大歳時記・秋』(1999・講談社)。(今井肖子)
August 312012
秋草や妻の形見の犬も老い
本井 英
俳句といえど自己表現なんだから他者と自己との識別をこころがけていくべきだ云々、僕が口角泡を飛ばして言ったとき聞いていた本井さんがぽつりと言った。「あなたは自己、自己っていうけど人はやがてみんな死ぬんだよ」。本井さんは少し前に奥方を亡くされていたのだった。死生観を踏まえての俳句の独自性を彼は「虚子」の中に見出した。平明で秋草という季節の本意もまことに生かされている。妻は泉下に入り犬は老い秋はまた巡ってきた。俳句の身の丈に合った述懐であることはよくわかる。この句はこれでいい、しかしと僕は言いたいのだが。『八月』(2009)所収。(今井 聖)
August 302012
夏の川ゴールデンタイムちらちらす
こしのゆみこ
夏は追憶の季節でもある。子供のころ当たり前のようにめぐってきた夏休みは退屈であきれるほど時間があった。だからと言って朝から晩までテレビを見たわけではない。あの頃のテレビは劇場の緞帳に似た覆いがかかっていて、好き勝手につけていいものではなかった。子供にチャンネル権はなく、家族がテレビの前に集まって見るゴールデンタイムの番組は夜の楽しいひとときだった。それも今は昔。朝から晩まで番組を流し続けるテレビに高揚感はなくなり、「ゴールデンタイム」はある世代の記憶の中にある時間帯になってしまった。掲句は夏の日を受けてちらちら光る川面を見ているうち「ゴールデンタイム」へ連想が及んだのか。白っぽく光る真空管テレビで見た「ディズニーランド」「鉄腕アトム」「宇宙家族ロビンソン」など子供心を浮き立たせた番組を懐かしく思い出す。あと一日で子供たちにとって至福のときである夏休みも終わってしまう。『コイツァンの猫』(2009)所収。(三宅やよい)
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