秋の虫が鳴きはじめました。日の光りも秋めいてきましたね。(哲




2012ソスN8ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2182012

 右左左右右秋の鳩

                           神野紗希

左左右右、さてなんでしょう。最初足取りを描いたが、それではまるで千鳥足。はたしてこれは首の動きなのだと思い至り、大いに合点した。頭部を小刻みにきょときょとさせる鳩の特徴的な様子を描いているのだ。平和の象徴と呼ばれ、公園などで餌をやる人がいる一方、のべつ動かす首が苦手だという人も多い。なかには他の鳥は許せるが、鳩だけは許せない、羽の色彩や鳴き声まで腹立たしいという強烈なむきもあるが、嫌悪の理由はおしなべて勝手なものである。鳩嫌いの女の子の四コマ漫画『はとがいる』でも、恐怖や目障りな存在をハト的なものとして描いて好評だが、ここにもこの鳥が持つ平和や幸福と相反するイメージへの共感がある。掲句を見て、秋の爽やかさと取るか、残暑の暑苦しさと取るかで、鳩好き、鳩嫌いに分けることができるだろう。ともあれ右と左、これだけで鳩の姿を眼前に映し出すのだから俳句は面白い。実際に爽やかを感じるまで、秋の助走はまだまだ長い。『光まみれの蜂』(2012)所収。(土肥あき子)


August 2082012

 いつとなく庇はるる身の晩夏かな

                           恩田秀子

惜しいが、私の実感でもある。若い人が読めば、甘っちょろい句と受け取るかもしれない。新味のない通俗句くらいに思う若者が多いだろう。だが、この通俗が老人にはひどくこたえる。「庇(かば)はるる身」はこれから先、修復されることが絶対に無いという自覚において、苦さも苦しなのである。「晩夏」は人生の「晩年」にも通じ、盛りの過ぎた「身」を引きずりながら、なお秋から冬へと生きていかざるを得ない。そういえば、いつごろから「庇はるる身」になったのだろうかと、作者は自問し心底苦笑している。自戒しておけば、庇われることは止むを得ないにしても、慣れっこになってはいけない。庇われて当然というような顔をした老人をたまに見かけるが、あれはどうにもこうにも下品でいけません。『白露句集』(2012)所載。(清水哲男)


August 1982012

 月とるごと種まくごとく踊りけり

                           山口青邨

踊りです。徳島の阿波踊りや、富山県八尾の風の盆など、踊りながら練り歩く踊りは壮観ですが、掲句は、寺の境内や広場でやぐらを組んだ盆踊り会場のようです。そう判断するのは、表現から、身体の動きにぎこちなさを感じとれるからです。「月とるごと」で一度切れています。手本になる踊り手が、月を両手で取るごとく踊っていて、作者は、それを見よう見まねで動きをなぞっているのですが、すぐにはできない。やや動きが遅れる。上五を字余りにして「ごと」で切ったのは、踊りの輪に入ったときはまだ初心者で、動きがうまくいっていない状態を示しているように思われます。「月とる」動きに慣れてきて、今度は「種まくごとく」の動きにうつり、これは、ぴっ たり定型 に納まりました。身体もだんだん慣れてきて、手本の踊り手を見なくても、輪の中で、何度も何度も同じ所作を繰り返せる。楽しくなってきた。やや上気してきた。それが、「踊りけり」という実感のある納まりになっています。一句の中で、作者の身体の変化が伝わってくるようで、これも踊りの効用でしょうか。月をとったり、種をまいたり、これらの所作も風流で、花鳥風月を円環の輪の中で真似ぶ所作は、いとをかしです。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)




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