今夜の高齢者宅配弁当。豚肉のマヨネーズ炒め。茄子のおかか煮など。(哲




2012ソスN8ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2082012

 いつとなく庇はるる身の晩夏かな

                           恩田秀子

惜しいが、私の実感でもある。若い人が読めば、甘っちょろい句と受け取るかもしれない。新味のない通俗句くらいに思う若者が多いだろう。だが、この通俗が老人にはひどくこたえる。「庇(かば)はるる身」はこれから先、修復されることが絶対に無いという自覚において、苦さも苦しなのである。「晩夏」は人生の「晩年」にも通じ、盛りの過ぎた「身」を引きずりながら、なお秋から冬へと生きていかざるを得ない。そういえば、いつごろから「庇はるる身」になったのだろうかと、作者は自問し心底苦笑している。自戒しておけば、庇われることは止むを得ないにしても、慣れっこになってはいけない。庇われて当然というような顔をした老人をたまに見かけるが、あれはどうにもこうにも下品でいけません。『白露句集』(2012)所載。(清水哲男)


August 1982012

 月とるごと種まくごとく踊りけり

                           山口青邨

踊りです。徳島の阿波踊りや、富山県八尾の風の盆など、踊りながら練り歩く踊りは壮観ですが、掲句は、寺の境内や広場でやぐらを組んだ盆踊り会場のようです。そう判断するのは、表現から、身体の動きにぎこちなさを感じとれるからです。「月とるごと」で一度切れています。手本になる踊り手が、月を両手で取るごとく踊っていて、作者は、それを見よう見まねで動きをなぞっているのですが、すぐにはできない。やや動きが遅れる。上五を字余りにして「ごと」で切ったのは、踊りの輪に入ったときはまだ初心者で、動きがうまくいっていない状態を示しているように思われます。「月とる」動きに慣れてきて、今度は「種まくごとく」の動きにうつり、これは、ぴっ たり定型 に納まりました。身体もだんだん慣れてきて、手本の踊り手を見なくても、輪の中で、何度も何度も同じ所作を繰り返せる。楽しくなってきた。やや上気してきた。それが、「踊りけり」という実感のある納まりになっています。一句の中で、作者の身体の変化が伝わってくるようで、これも踊りの効用でしょうか。月をとったり、種をまいたり、これらの所作も風流で、花鳥風月を円環の輪の中で真似ぶ所作は、いとをかしです。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)


August 1882012

 ひらきたる花火へ開きゆく花火

                           岩垣子鹿

らきたる、は散りかけていて、開きゆく、は今まさに大輪。開きゆく花火、と読んでいる時には、ひらいた花火ははらはら散っている。縦書きの方がさらに感じが出るだろう。いずれにしても、ひらがなと漢字の視覚的効果の違いによって、花火そのものの有り様がとらえられている。さらにその二つの花火を、へ、がつなぐことで、瞬間の時間差も体感できる仕組みである。奈良県生まれ、戦後まもなく奈良医大俳句会で俳句と出会ったという作者の、最初で最後の句集『やまと』(2006)は〈もののけの遊ぶ吉野の春の月〉の一句で締めくくられている。(今井肖子)




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