広島原爆忌。三鷹市では投下時刻に黙とうのサイレンを鳴らす。(哲




2012ソスN8ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0682012

 髪洗ふ背骨だいじと思ひけり

                           長戸幸江

齢を重ねてくると、いつしか嫌でも自分の身体の劣化に気づくようになる。昔の人は、劣化はまず「歯」にあらわれ、次に「目」にくると言った。私もその順番だった。そうなってくると、まだ現象としてあらわれてはいなくても、身体のあちこちの部位が心配になってくる。このときの句の作者の年齢は知らないが、髪を洗っているときに、うつむき加減の身体を支えている「背骨」の大切さを、身にしみて理解している。若いときには、思いもしなかった身体観が出てきたのだ。そしてだんだんこうした認識は、多くの立ち居振る舞いごとに浮かんでくるようになる。それが老人の性(さが)なのであり、仕方のないことだけれども、こうしてそのことを句として掲げられてみると、あらためて自分の身体にそくして同感している自分に気がつかされる。そしてこの認識は、次のような句にもごく自然に及んでいくのだ。「夏野原少女腕を太くせよ」。『水の町』(2012)所収。(清水哲男)


August 0582012

 朝焼の雲海尾根を溢れ落つ

                           石橋辰之助

頂、または山小屋、テント場で迎えた朝。眼下の雲海は、朝焼けに照らされながら、ゆっくりと尾根から、あふれるように下界に落ちていきます。句のモチーフは、光と雲と岩のみで、人も生き物も読みこまれていません。生命が誕生する前からある、太陽と地球との無言の挨拶。そこには「おはよう」という言葉もありません。しかし、滝のように尾根から谷へと流れ込む雲海の動きをみていると、地球そのものが生きているように思えてきます。私は高校時代、山岳部だったので、大雪、知床、南アルプスなどを縦走しましたが、ここ近年は下界の塵芥の住人に甘んじています。掲句のような荘厳で雄大な句を目にすると、久しぶりに重い腰を上げて、リュックサックを背負ってみようか、という気持ちになります。「鑑賞俳句歳時記・夏」(1997・文芸春秋)所載。(小笠原高志)


August 0482012

 素晴らしき夕焼よ飛んでゆく時間

                           嶋田摩耶子

和三十四年、作者三十一歳の時の作。星野立子を囲む若手句会、笹子会の合同句集『笹子句集 第二』(1971)の摩耶子作品五十句の最初の一句である。時間が飛んでゆくとは、と考えてしまうとわからなくなる、圧倒的な夕焼けを前にして何も言えない、でも何か言いたい、そう思いながら思わず両手を広げて叫んでしまったようなそんな印象である。さらに若い頃には〈月見草開くところを見なかつた〉〈地震かやお風呂場にゐて裸なり〉など、いずれも夏の稽古会での作。そしてその後も自由な発想を持ち続けていた作者だが先月、生まれ育った北海道の地で療養の末帰らぬ人となった。華やかな笑顔が思い出される。〈子を寝かし摩耶子となりてオーバー著る〉(今井肖子)




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