五輪がはじまると野球の灯がかすむ。東京五輪のときは悲惨だった。(哲




2012ソスN7ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1172012

 紙コップとぶ涼しさや舟遊び

                           吉屋信子

火、お祭り、ナイター、夜釣り……納涼のための楽しみや遊びはいろいろある。なかでも、川であれ、海であれ、舟を出しての舟遊びは格別である。しばし世間のしがらみとは断ち切られた、一種独特の愉楽を伴っている。気の合う連中でワイワイと酒肴を楽しみながら、時間がたつのも忘れてしまう。ビールや冷酒をついだ紙コップが、客のあいだをせわしなく飛びかっている。しかし、時代とともに「舟遊び」などという結構な心のゆとりは、次第に失われつつあるようだ。掲句の軽快さは舟遊びの軽快さでもあろう。その昔のお大尽たちは昼頃から舟を出し、歌舞音曲入りで暁にまで及んだものだという。もう十数年前、浅草の吾妻橋のたもとから乗合いの屋形舟で隅田川をくだり、幇間の悠玄亭玉介のエッチなお座敷芸を楽しみながら、お台場あたりまで往復するひとときを満喫したことがあって、忘れられない。屋形舟で友人の詩集出版記念会を企画実施したこともあった。春は桜、夏は納涼、秋は月、冬は雪、と四季の贅沢が楽しめる。護岸と野暮なビル群のせいで、もはや風情はないけれど。信子は「灰皿も硝子にかへて衣更へ」など多くの俳句を残した。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 1072012

 烏瓜の花を星雲見るごとく

                           宮津昭彦

没後に開く烏瓜の花の微細さは、見るたび胸をしめつける。レースや煙、寺田寅彦にいたっては骸骨などとあまりといえばあまりな見立てもみられるが、どれもどこかしっくりこないのは、比喩されたことにより遠のいてしまうような掴みどころのなさをこの花は持っているのだと思う。しかし、掲句の「星雲」といわれてみれば、たしかにこれほど似つかわしい言葉はないと納得する。漆黒の宇宙のなかに浮く星雲もまた、目を凝らせば凝らすほどと、もやもやと紛れてしまうような曖昧さがある。美しいというより、不可解に近いことも同種である。夜だけ咲く花を媒介する昆虫や鳥がいるのかと不思議に思っていたが、明かりに集まる蛾がその白さに寄ってくるという。花びらの縁から発する糸状の繊維は、もしかしたら光りを模しているのかもしれないと思うと、ますます満天に灯る星屑のように見えてくる。もっとよく観察しようと部屋に持ち帰れば、みるみる萎れてしまう、あえかな闇の国の花である。〈枇杷熟るる木へゆつくりと風とどき〉〈近づけば紫陽花もまた近寄りぬ〉『花蘇芳』(2012)所収。(土肥あき子)


July 0972012

 冷し中華普通に旨しまだ純情

                           大迫弘昭

どものころならいざ知らず、大人になれば、日常の食事にいちいち旨いとか不味いとか反応しなくなってくる。なんとなく食べ終わり、味覚による感想はほとんど湧いてこない。それが「普通」だろう。作者はとくに好物でもない冷し中華を空腹を満たすためにたまたま食べたのだが、食べ終えたときに「普通に旨し」と、しごく素直な感想が浮かんだのだった。そして、こんな感想が自然に浮かんできたことに、作者はちょっぴり驚いたのである。すれっからしの中年男くらいに思っていた自分にも、まだこんな一面が残っていたのか。声高に他人に告げることでもないけれど、ふっと浮かんだ小さい食事の感想に、眠っていた自分の「純情」に思いがけなくも向き合わされたわけで、作者が戸惑いつつも自己納得した一瞬である。わかりにくい句だが、読み捨てにはできない魅力を覚えた。人は誰にも、自分にも思いがけないこうした「純情」がかくされてあるのではあるまいか。『恋々』(2011)所収。(清水哲男)




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