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July 1072012

 烏瓜の花を星雲見るごとく

                           宮津昭彦

没後に開く烏瓜の花の微細さは、見るたび胸をしめつける。レースや煙、寺田寅彦にいたっては骸骨などとあまりといえばあまりな見立てもみられるが、どれもどこかしっくりこないのは、比喩されたことにより遠のいてしまうような掴みどころのなさをこの花は持っているのだと思う。しかし、掲句の「星雲」といわれてみれば、たしかにこれほど似つかわしい言葉はないと納得する。漆黒の宇宙のなかに浮く星雲もまた、目を凝らせば凝らすほどと、もやもやと紛れてしまうような曖昧さがある。美しいというより、不可解に近いことも同種である。夜だけ咲く花を媒介する昆虫や鳥がいるのかと不思議に思っていたが、明かりに集まる蛾がその白さに寄ってくるという。花びらの縁から発する糸状の繊維は、もしかしたら光りを模しているのかもしれないと思うと、ますます満天に灯る星屑のように見えてくる。もっとよく観察しようと部屋に持ち帰れば、みるみる萎れてしまう、あえかな闇の国の花である。〈枇杷熟るる木へゆつくりと風とどき〉〈近づけば紫陽花もまた近寄りぬ〉『花蘇芳』(2012)所収。(土肥あき子)


July 0972012

 冷し中華普通に旨しまだ純情

                           大迫弘昭

どものころならいざ知らず、大人になれば、日常の食事にいちいち旨いとか不味いとか反応しなくなってくる。なんとなく食べ終わり、味覚による感想はほとんど湧いてこない。それが「普通」だろう。作者はとくに好物でもない冷し中華を空腹を満たすためにたまたま食べたのだが、食べ終えたときに「普通に旨し」と、しごく素直な感想が浮かんだのだった。そして、こんな感想が自然に浮かんできたことに、作者はちょっぴり驚いたのである。すれっからしの中年男くらいに思っていた自分にも、まだこんな一面が残っていたのか。声高に他人に告げることでもないけれど、ふっと浮かんだ小さい食事の感想に、眠っていた自分の「純情」に思いがけなくも向き合わされたわけで、作者が戸惑いつつも自己納得した一瞬である。わかりにくい句だが、読み捨てにはできない魅力を覚えた。人は誰にも、自分にも思いがけないこうした「純情」がかくされてあるのではあるまいか。『恋々』(2011)所収。(清水哲男)


July 0872012

 ゆるやかに着てひとと逢ふほたるの夜

                           桂 信子

るやかに浴衣を着てひとに逢う。一緒に蛍を見に行く仲だから、たぶん逢いびきでしょう。ややしどけなく着付けをした足もとは草履ですから、水辺の小径を、小股にちょぼちょぼと歩かなくてはなりません。蛍は、月明かりがあっても明滅しないほどですから、漆黒の闇の中、二人、草間の小径をそろりそろりと手をひいて、つかずはなれずあゆみをいっしょに歩きたい。句には、そんな期待があります。七夕は、織姫と牽牛の年に一度の逢瀬。地上の水辺では、蛍が発光し、求愛しています。女がゆるやかに浴衣を着てひとに逢うとき、男は、その胸の裏から発光する輝きを垣間見なくてはならないのではないか、と、こちらもその光に照らされなくてはならないんじゃ ないか、と、現実ではなかなかほとんどあり得ぬシチュエーションながら、妄想の中で決意 する次第であります。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)




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