2012N7句

July 0172012

 髪に櫛とほりよき朝夏燕

                           鈴木真砂女

(げん)のいい朝の句です。黒髪の真砂女は、櫛の通りのよさに気分をよくしています。それは体調のよさの表れでもあり、それ以上に、女としての艶のよさを自覚するよろこびでもあるでしょう。銀座で小料理屋を営んでいた女将ですから、朝から仕込みは始まっています。活きのよい肴を出すと同じく、酔客に、粋な自身を差し出す準備。長く、秘めて激しい恋情を抱き続けたこの作者にふさわしい、意地と媚態と潔さをも感じるのは、僭越でしょうか。九鬼周造は、この三位一体の表れが粋であると論じています(『いきの構造』)。ツバメは五月頃に飛来し、カラスやヘビに襲われにくい民家の軒下などに巣を作り、うまく、人の暮らしと共存して卵を産み、子を育て、 七月頃に は旅立ちます。その家づくり、子育ても、そして飛ぶ姿にもスピードがあります。髪に櫛の通りのよさ、夏燕のはやさ。ここに、淀みのない商売の吉兆を占ったのでしょう。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


July 0272012

 七月を歩き出さむと塩むすび

                           高木松栄

月に入った。まもなく暑い日々がやってくる。それなりの覚悟を決めて、この月を乗り切らねばならぬ。そのためにはまず、何はともあれ腹ごしらえだと、「塩むすび」を頬ばっている。「塩むすび」とはまた懐かしい響きだが、まだ冷房が普及していなかったころの句だろうか。だとすれば、粗食の時代でもあった。だからこの句は、昔の生活感覚を共有できる読者でないと、理解できないだろう。いまの若い人には、なぜ腹ごしらえなのか、なぜ塩むすびなのかが、観念的にはわかるかもしれないが、生活感覚的に当然だと受けとめることは不可能に近いはずだ。したがって、こういう句は、今後は作られることはないだろう。第一、「塩むすび」に代わり得る食品がない。パンでも駄目だし、ラーメンでも駄目。かつての「塩むすび」のように、それだけで時代のありようを集約できる食べ物は、もうないのである。こんな平凡なことが私たちにとって、そして俳句にとっても、意外に大きな意味を持っていることに、あらためて驚かされる。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


July 0372012

 麦笛や♪めぐるさかづき♪あたりまで

                           戸恒東人

句の歌詞は「春高楼の花の宴」で始まる土井晩翠作詞滝廉太郎作曲の『荒城の月』。このあと、♪めぐるさかづき♪が続く。これでワンコーラスという短い間であることが分るのだから、唱歌というのはすごいものだ。麦笛は茎の空洞を利用して、息を吹き込む。折り取った茎の途中に、爪や歯を使って小さな穴を開けたり、茎に葉を巻いて吹くなど方法はさまざまだが、どちらも折り口に唇を当てれば、清涼感あふれる香りが胸を満たす。『荒城の月』は古風な歌詞に西洋風のメロディーが融合した名曲とされるが、子ども心にも物悲しく、無常を感じさせるものだった。めぐるさかづき、のワンフレーズあたりが麦笛という小道具をさみしくさせすぎない頃合いなのかもしれない。『白星』(2012)所収。(土肥あき子)


July 0472012

 老鶯の声捨ててゆく谷深し

                           新井豊美

は「春告鳥」とも「歌詠鳥」とも呼ばれ、言うまでもなく春の鳥である。しかし、春の頃はまだ啼きはじめだから、声はいまだしの感があってたどたどしい。季節がくだるにしたがって啼きなれて、夏にはその声も鍛えられて美しくなってくる。そうした鶯は「老鶯(おいうぐひす)」とも「残鶯」とも呼ばれて、夏の季語である。谷渡りする鶯だろうか、声を「捨ててゆく」ととらえたところが何ともみごとではないか。美しい声を惜しげもなく緑深い谷あいに「捨てて」、と見立てたところが、さすがに詩人の鋭い感性ならでは。鶯の声は谷あいに涼しげに谺して、いっそう谷を深いものにしている。数年前に鎌倉の谷あいでしきりに聴いた老鶯の声を思い出した。うっとりと身をほぐすようにして、しばし耳傾けていたっけ。(豊美さんの声も品良くきれいだったことを思い出した。)二〇〇九年七月のある句会で特選をとった句だという。同じ時の句「この道をどこまでゆこう合歓の花」も特選をさらった。「鶺鴒通信」夏号(2012)所載。(八木忠栄)


July 0572012

 親殺し子殺しの空しんと澄み

                           真鍋呉夫

月の5日、真鍋呉夫氏が亡くなった。文庫版の句集しか読んだことはないが、俳壇の中にある俳人とは違う時空を広げる句に心惹かれるものがあった。「親殺し」「子殺し」の記事が日々新聞にあふれている。余裕のない世間に孤立しがちな苛立ちを一番身近にいる対象にぶつけ、憎み傷つけてしまう愚かしさ。人を殺めるのは瞬間であっても、一線を越えた後の地獄は文学の中で繰り返し語られてきた。親殺し、子殺しの横行する現代、同時代を生きている誰もが多かれ少なかれ追い詰められた空気を共有している。しかし、そんな人間たちの頭上に広がる空はしんと澄みわたり人間の愚行を見下ろしているようだ。その絶景は、地球を覆う人間がことごとく滅亡した終末の空へとつながっているのかもしれない。『雪女』(1998)所収。(三宅やよい)


July 0672012

 鳥葬図見た夜の床の 腓返り

                           伊丹三樹彦

葬図でなくて鳥葬そのものだったらもっと良い句だったのにと考えたあとで思った。しかし鳥葬の実際を目の当たりにできるのかどうかと。岩の上などに置かれた遺体を降りてきた鳥が啄む瞬間など、現実として行われているにしてもプライベートな厳かな儀式でとても見ることなど許されないのではないか。死者の尊厳。そんなことを考えていて柩の窓のことをふと思った。参列者へのお別れとして柩の窓から死者の顔を見る。見る側は見納めとして見るのだが見られる側はどうなのかな。もう意識はないのだからどうでもいいのか。知人は両親共亡くしたあと「こんどは俺が死顔を見られる番だ」と語った。その知人も過日亡くなり僕は柩の窓からお顔を見てきた。ほんとうに嫌だったら遺言しておく手もあったのだから、まあ、そんなことは彼にとってはどっちでもよかったのだと思った。やっぱり鳥葬じゃなくて鳥葬図くらいで良かったのかもしれない。『伊丹三樹彦研究PARTII』(1988)所載。(今井 聖)


July 0772012

 人生の輝いてゐる夏帽子

                           深見けん二

の夏帽子は白くて大きく、その主は若く華やかな女性、こぼれんばかりの笑顔がまぶしいのだ、と一人が言った。すると、いやいや、この夏帽子は麦わら帽かピケ帽でかぶっているのは少年、希望に満ちあふれ悩みもなく、明るい未来を信じている今が一番幸せなのだ、と別の誰か。さらに、いやこの夏帽子の主は落ち着いた奥様風の女性、上品な帽子がよく似合っていて、いろいろあったけれど今が幸せ、という雰囲気が感じられるのだ、と言う人もいて、夏帽子の印象はさまざまだった。たまたま、作者にお目にかかる機会があり、それとなくうかがうと「人生、という言葉を使いましたからねえ、あまり若くはないかな。まあ、なんとなく今が幸せ、というふうに見えたんですよ」と。作者の眼差しは客観的で、それによって読み手は無意識のうちに、自分の人生の一番輝いている、または、輝いていたと思う姿をそこに見るのかもしれない。俳誌「花鳥来」(2012年夏号)所載。(今井肖子)


July 0872012

 ゆるやかに着てひとと逢ふほたるの夜

                           桂 信子

るやかに浴衣を着てひとに逢う。一緒に蛍を見に行く仲だから、たぶん逢いびきでしょう。ややしどけなく着付けをした足もとは草履ですから、水辺の小径を、小股にちょぼちょぼと歩かなくてはなりません。蛍は、月明かりがあっても明滅しないほどですから、漆黒の闇の中、二人、草間の小径をそろりそろりと手をひいて、つかずはなれずあゆみをいっしょに歩きたい。句には、そんな期待があります。七夕は、織姫と牽牛の年に一度の逢瀬。地上の水辺では、蛍が発光し、求愛しています。女がゆるやかに浴衣を着てひとに逢うとき、男は、その胸の裏から発光する輝きを垣間見なくてはならないのではないか、と、こちらもその光に照らされなくてはならないんじゃ ないか、と、現実ではなかなかほとんどあり得ぬシチュエーションながら、妄想の中で決意 する次第であります。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


July 0972012

 冷し中華普通に旨しまだ純情

                           大迫弘昭

どものころならいざ知らず、大人になれば、日常の食事にいちいち旨いとか不味いとか反応しなくなってくる。なんとなく食べ終わり、味覚による感想はほとんど湧いてこない。それが「普通」だろう。作者はとくに好物でもない冷し中華を空腹を満たすためにたまたま食べたのだが、食べ終えたときに「普通に旨し」と、しごく素直な感想が浮かんだのだった。そして、こんな感想が自然に浮かんできたことに、作者はちょっぴり驚いたのである。すれっからしの中年男くらいに思っていた自分にも、まだこんな一面が残っていたのか。声高に他人に告げることでもないけれど、ふっと浮かんだ小さい食事の感想に、眠っていた自分の「純情」に思いがけなくも向き合わされたわけで、作者が戸惑いつつも自己納得した一瞬である。わかりにくい句だが、読み捨てにはできない魅力を覚えた。人は誰にも、自分にも思いがけないこうした「純情」がかくされてあるのではあるまいか。『恋々』(2011)所収。(清水哲男)


July 1072012

 烏瓜の花を星雲見るごとく

                           宮津昭彦

没後に開く烏瓜の花の微細さは、見るたび胸をしめつける。レースや煙、寺田寅彦にいたっては骸骨などとあまりといえばあまりな見立てもみられるが、どれもどこかしっくりこないのは、比喩されたことにより遠のいてしまうような掴みどころのなさをこの花は持っているのだと思う。しかし、掲句の「星雲」といわれてみれば、たしかにこれほど似つかわしい言葉はないと納得する。漆黒の宇宙のなかに浮く星雲もまた、目を凝らせば凝らすほどと、もやもやと紛れてしまうような曖昧さがある。美しいというより、不可解に近いことも同種である。夜だけ咲く花を媒介する昆虫や鳥がいるのかと不思議に思っていたが、明かりに集まる蛾がその白さに寄ってくるという。花びらの縁から発する糸状の繊維は、もしかしたら光りを模しているのかもしれないと思うと、ますます満天に灯る星屑のように見えてくる。もっとよく観察しようと部屋に持ち帰れば、みるみる萎れてしまう、あえかな闇の国の花である。〈枇杷熟るる木へゆつくりと風とどき〉〈近づけば紫陽花もまた近寄りぬ〉『花蘇芳』(2012)所収。(土肥あき子)


July 1172012

 紙コップとぶ涼しさや舟遊び

                           吉屋信子

火、お祭り、ナイター、夜釣り……納涼のための楽しみや遊びはいろいろある。なかでも、川であれ、海であれ、舟を出しての舟遊びは格別である。しばし世間のしがらみとは断ち切られた、一種独特の愉楽を伴っている。気の合う連中でワイワイと酒肴を楽しみながら、時間がたつのも忘れてしまう。ビールや冷酒をついだ紙コップが、客のあいだをせわしなく飛びかっている。しかし、時代とともに「舟遊び」などという結構な心のゆとりは、次第に失われつつあるようだ。掲句の軽快さは舟遊びの軽快さでもあろう。その昔のお大尽たちは昼頃から舟を出し、歌舞音曲入りで暁にまで及んだものだという。もう十数年前、浅草の吾妻橋のたもとから乗合いの屋形舟で隅田川をくだり、幇間の悠玄亭玉介のエッチなお座敷芸を楽しみながら、お台場あたりまで往復するひとときを満喫したことがあって、忘れられない。屋形舟で友人の詩集出版記念会を企画実施したこともあった。春は桜、夏は納涼、秋は月、冬は雪、と四季の贅沢が楽しめる。護岸と野暮なビル群のせいで、もはや風情はないけれど。信子は「灰皿も硝子にかへて衣更へ」など多くの俳句を残した。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 1272012

 蛍の夜右が男の子の匂ひ

                           喜田進次

もとっぷり暮れて、あたりは真っ黒な闇に包まれてゆく。青白い火が一つ瞬いて、気がつけばあちらにもこちらにも蛍が見えてくる。胸のあたりに並んだ子供の頭がときどき揺れて、汗ばんだ身体や髪から日なたくさい匂いが上がってくる。右側にいるのが男の子だろうか。普段は意識しないけど、そうやって比較すれば女の子の方が涼しげな匂いがしそうな気がする。暗闇にたたずみ蛍に見入っていると闇にいる動物のように五感が鋭くなり、匂いに敏感になるのかもしれない。こんな句を読むと、息をつめて川岸の蛍を見つめている雰囲気がまざまざとよみがえってくる。歓声を交えてざわめく人の声や、湿った草いきれ、川のせせらぎまで聞こえてきそう。今も、蛍は飛び交っているだろうか。いっぱいの蛍が群れてクリスマスツリーのように光る樹を見に行きたい。「家に着くまで夏雲の匂ふなり」「銀行の前がさびしき天の川」『進次』(2012)所収。(三宅やよい)


July 1372012

 河尽きる灯のあるところ夜具のべられ

                           林田紀音夫

ームレスの人の様子に見える。河尽きるは海辺ということだろう。考えてみれば日本の都市のほとんどは海辺にある。海に囲まれた国ですからね。このごろ話題の生活保護費の不正受給の人なんかよりホームレスの人はどこか誠実に思える。そもそも住所不定では生活保護も受けられない。少し前だったか、新入社員研修で路上で何日か寝起きすることを課した会社があった。人の足元からの目線が営業においては大切だというような理屈だったような。俳人も路上吟行と称して人間と情況のウオッチングなんかも現在に深く切り込めるかもしれない。「俳句界」(2008年6月号)所載。(今井 聖)


July 1472012

 ムームーの中の中腰波になる

                           藤崎幸恵

ームー、個人的にはまさに夏の思い出なのだが、手元の歳時記には見あたらず、『ハワイ歳時記』(1970・博文堂)には、アロハシャツの傍題となっているが例句はない。大辞林に、ハワイの女性が着る、ゆったりした派手な柄の木綿のワンピース、とあるので、民族衣装という位置づけなのだろうか。掲出句のムームーもフラダンスを踊っていて、特に夏でなくてもいいと言われればそうなのだが、絶妙な表現によって、大胆な柄に覆われた女性の腰のなめらかな動きから感じられる波は、やはり真夏の碧い海のものだろう。子供の頃、母の手作りムームーを母娘三人おそろいで着ていた。今思えば丈がやや短く、あっぱっぱとかサンドレスと呼ばれるものだったが、すとんとしたシルエットのそれをみんなムームーと呼んでいて、特にリンゴ体形の母の夏には無くてはならない普段着だったのだ。「異空間」(2011)所収。(今井肖子)


July 1572012

 雨つぶの雲より落つる燕子花

                           飴山 實

雨時の草花は、生き生きしています。水をたっぷり吸って、葉も花びらも雨に洗われて新鮮です。傘をさして歩くことが多くなるのでうつむきがちになりますが、燕子花(かきつばた)のような青紫色の花に出会うと、この季節にふさわしい色彩であると思い至ります。紫陽花もそうですが、青空が少ないこの季節には、青紫を希求する心情があるように思われます。梅雨時には青紫が似合います。「雨つぶの雲より落つる」は、雨つぶを単数ととらえるか、複数ととらえるかで趣きが変わります。複数ととらえると、雲にも雨の降る範囲にも広がりが出て、燕子花の数もにぎやかになります。しかし、ここは利休が朝顔一輪で秀吉を招いたわび茶にならって、雨は一粒、燕子花 は一輪と とらえます。すると、雨つぶの一滴が雲から垂れ落ちるその一瞬を、じっくり時間をかけて夢想することができます。その一粒が、青紫の花一輪にとどいています。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


July 1672012

 川床に来て氷金時などいふな

                           松村武雄

都には六年住んだが、「川床(ゆか)」には一度も縁がなかった。どだい学生風情が上がれるような気安いところではなかったから、毎夏鴨川の道端からそのにぎわいを遠望するだけで、あそこには別の人種がいるんだくらいに思っていた。たまさかそんな川床に招かれた作者は、京情緒を満喫すべく、しかもいささか緊張気味に坐っている。で、料理の注文をとなったときに、同席の誰かが大きな声で「氷金時」と言ったのだ。たぶん、そういう場所で遊び慣れた人なのだろう。が、緊張気味の作者にしてみれば、せっかくの心持ちが台無しである。こんなところに来てまで、どこにでもあるような氷菓を注文したりするなよと、顔で笑って心で泣いての心境だ。めったに行けない店にいる喜びがぶち壊されたようで、むらむらと怒りもわいてきた。わかるなあ、この気持ち。最近はスターバックスの川床もできているそうだから、もはや若い人にこの句の真意は伝わらないかもしれない。でもねえ、せっかくの川床で、アメリカンなんてのは、どうなのかなあ。なお余談だが、作者は詩人北村太郎(本名・松村文雄)の実弟。一卵性双生児だった。『雪間以後』(2003)所収。(清水哲男)

{違ったかな}「氷金時」を注文したのは、連れて行った子どもだったのかもしれませんね。そのほうが素直な解釈に思えてきました。うーむ。


July 1772012

 恐竜の踊る仕草や昼寝覚め

                           合谷美智子

しかに恐竜といって思い浮かべたティラノサウルスには、大きな頭と二足歩行する立派な足、そしておぼつかない腕のようなものが付いている。国立科学博物館のHPによると、全長12メートルもあるティラノサウルの腕の長さは大人の人間のそれとほとんど変わりないという。そんな華奢なものが一体なんの役に立つのだろうか。あらためて見れば見るほど奇妙な具合で、指は2本あり、その用途はいまだはっきりしていない。強面の巨体の胸についた腕をぱたぱたと動かす姿を想像すればなにやら滑稽で、掲句の通りまるで盆踊りでも踊っているように見えるのではないか。恐竜にはまだまだ謎が多く、皮膚が残っていないことからその色彩もはっきりしない。もしかしたら黄色と赤のストライプという鮮やかな配色の可能性もあったかもしれない。昼寝の覚め際には、もぞもぞと寝返りを打ちながら夢の記憶をまさぐるような時間がある。目の前を原色の恐竜がひた走り、激しい咆哮を聞き、草原の強い風のなかから抜け出してしまうのは、なんとも惜しい。〈あめんぼに四角き影のありにけり〉〈父のゐて母美しや夕端居〉『一角獣』(2012)所収。(土肥あき子)


July 1872012

 女等昼寝ネオンの骨に蝉が鳴く

                           ねじめ正也

者のことを最初に明かしてしまえば、ねじめ正一のお父さんである。もう知られているように、乾物屋さんの店主だった。(正一『高円寺純情商店街』参照)商いとはいえ暑い夏には、朝が早い人はかつてよく昼寝をしたものだ。個人商店だから「女等」と言っても、妻や女店員だろう。せいぜい二人くらいだと思われるけれど、商店街のお隣もお向かいも同じように女性たちが、ごろりと束の間の昼寝をむさぼっているのかもしれない。昼間のネオンは用無しで間抜けである。「ネオンの骨」という見立てがおもしろい。その支柱にとまっている蝉がやおら鳴き出したけれども、女たちは起きそうもないし、主人も起こさない。主人である作者は女たちと蝉の声を気にしながら、店番をしながらぽつねんとしているのだろう。夏の昼下がりの商店街の無聊が、のんびりと感じられてくるようだ。昼寝と白昼のネオン、しばし手持ち無沙汰の主人……蝉の声も、どこかしらのんびりとしか聞こえてこない。正也のただ一冊の句集『蠅取リボン』は正一ら子どもたちからのプレゼントだった。清水哲男編『「家族の俳句」歳時記』(2003)所載。(八木忠栄)


July 1972012

 暑からむいとしこひしの大阪は

                           守屋明俊

の間オリエンタルカレーの懐かしのパッケージを見つけて思わず買ってしまった。その昔、日曜日の昼と言えばオリエンタルカレー提供の「がっちり買いまショウ」を見ていた。いとし、こいしが司会だった。当時は物足りなかったけど、二人にはやすし、きよしのようなしゃべくり漫才にはない大人の味わいがあった。大阪の暑さは格別で、奥坂まやの句にも「大阪の毛深き暑さ其れを歩む」という句がある。湿気が高くてそよりとも風の吹かない大阪の夏はむうっと息が詰まる暑さだ。しかし掲載句は「暑からむ」と推定になっている。大阪から遠くに離れ、今はいない「いとしこいし」の洒脱な漫才を想うように大阪の粘る暑さを懐かしく思っているのだろう。今年の大阪も暑いだろうか。京都の夏、名古屋の夏、東京の夏、それぞれの都市に似合いの人や事柄を取り合わすことで暑さの受け取り方も変わってきそうだ。『日暮れ鳥』(2009)所収。(三宅やよい)


July 2072012

 凍死体運ぶ力もなくなりぬ

                           原田 喬

んざりするほど暑い日が続くと、句集を開くときでさえ、わずかな涼感を求めるようにページを繰る。不思議なことにそんなときには吹雪や凩の句ではなく、やはり夏季の俳句に心を惹かれる。遠く離れた冬ではあまりにも現実から離れすぎてしまうためかもしれない。掲句には奥深くを探る指先にじわりとしみるような涼を感じた。人間が直立二足歩行を選択してから、踵は身体の重さを常に受け止める場所となった。細かい砂にじわじわと踵が沈む感触は、地球の一番やわらかい場所に身体を乗せているような心地になる。あるいは、波打際に立ったときの足裏の、砂と一緒に海へと運ばれてしまうようなくすぐったいような悲しいような奇妙な感触を思い出す。暑さのなかに感じる涼しさとは、どこか心細さにつながっているような気がする。〈ひらくたび翼涼しくなりにけり 前書:田中裕明全句集刊行〉〈この星のまはること滝落つること〉『巣箱』(2012)所収。(土肥あき子)


July 2172012

 虹飛んで来たるかといふ合歓の花

                           細見綾子

者はこう書いている。「私は女であるためか、合歓を見ても美人などは連想しない。夢とか、虹とか、そんなものを思い浮かべる。合歓は明るくて、暗い雨の日でも灯るように咲く。合歓が咲くと、その場所が好きになるのだった」以前にも一句引いた句文集『武蔵野歳時記』(1996)は、何度読んでもしみじみ良い。読ませる、とか、巧みという文章ではないのだと思うが、正直で衒いのない書きぶりと、その感性に惹きつけられる。合歓の花を見る、微妙な色合いが美しいなと思う、ここまでは皆同じだが、たいてい、この美しさをどう詠もう、と考えて、そこに美人が出てきたりするわけだが、この作者は即座に、まるで虹が飛んできたようだわ、と思ってそれがぱっと句になる。そして読者は、合歓の花の優しい色合いと、それが咲いていた彼の地を静かに思い出すのだ。(今井肖子)


July 2272012

 土用鰻店ぢゆう水を流しをり

                           阿波野青畝

余りは、うなぎの長さでしょうか。注文してから待たされる時間の長さもありましょうか。暑いから、うなぎを大量にさばくから、「水を流しをり」なのでしょう。「ぢゆう」を眺めていると、うなぎの形にみえてきます。この数日間、非常に切ない思いでいます。掲句をずっと考えているわけですが、うなぎが食いたい、今日はうなぎを食いに行こう、国分寺に鰻屋はあるだろうか、仕事で横須賀に行っても鰻屋を探す始末。ついには旧知の鰻屋のおかみさんにメールで、この、日本民族をこの時期に熱狂させる、この、うなぎの魅力と魔力は何なのだ?と問いかけましたが、一笑に付されました。なお、このおかみさんはなかなかの美人で、諏訪にある鰻屋の女将さんも美しく、中野の鰻屋の女将さんは、張りのある元、美少女です。うなぎを食っているから美女になるのか、鰻屋の主人は、美女を口説くのがうまいのか、たぶん、後者だと今気づきました。鰻を食っているから、アレですよ。ところで、私は、過去五年間で、五回、鰻屋で鰻を食っています。ちょうど、一年に一度。だから、この一期一会が強く記憶に残ります。その匂い、白いご飯と、赤茶けたタレ、それに染まった焦げてふんわりした身のふくよかに、あぶらのしるがじんわり口中に広がりとどきます。世界中で収穫される鰻の八割が、日本人の胃袋に収まるそうです。この時期、無性に食べたくなる日本のハレの食文化、土用の丑の伝統を作った平賀源内は天才です。そして、もう一人の天才、赤塚不二夫は、ある日、犬のキャラクターを考えていたときに、当時の少年マガジンの編集者が「ああ、、今日は土用、、鰻が食いたいーー」と言った声を聞いて、名作「ウナギイヌ」を創作したのでした。「日本大歳時記・夏」(1982講談社)所載。(小笠原高志)


July 2372012

 鶏舎なる首六百の暑さかな

                           佐々木敏光

百羽もの鶏が鶏舎から首を出して、いっせいに餌を食べている図だ。想像しただけで暑さも暑しである。私が子どもだったころには、こういう光景は見られなかった。そのころはどこでも「平飼い」であり、句のような立体的な鶏舎で飼う方式(バタリー方式)に移行したのは50年代も後半からだったと記憶する。父が購読していた「養鶏の友」などという雑誌で、盛んにバタリー方式が推奨されていたことは知っていたが、まさか平飼いが消滅するとは夢想だにしなかった。この方式では、雌鳥を完全に卵を産む機械とみなしている。一羽あたりの生息面積はA4判くらいしかなく、夜も照明を当てられて産まない自由は奪われている。私のころの夏休みといえば鶏の世話は子どもの役目で、夕暮れどきに散らばっている鶏たちを鶏舎に追い込む苦労も、いまとなっては楽しい思い出だ。鶏は頭がよくないという説もあるが、あれでなかなか個性的であり、一羽一羽に情がうつったものである。が、バタリー方式になってしまっては、そうした交流もかなわない。ただただ暑苦しいだけ……。ヨーロッパあたりでは、この残酷な飼い方を見直す動きが出ていると聞く。『富士・まぼろしの鷹』(2012)所収。(清水哲男)


July 2472012

 冷房が眼帯の紐揺らしをり

                           森 篤史

粉症の蔓延に伴ってマスク姿はすっかり見慣れたが、眼帯には依然あたりの目を引くような存在感が残っている。小中学生時代には、眼帯やギブスなどに対して奇妙な憧れがあり、冴えない生徒にスポットライトが当たるように、その白さがまぶしく見えたものだ。とはいえ、いざ自身への装着となると、視界を奪われる不自由さは、日常生活の細部に渡り、厄介きわまりない。距離感のもどかしさを他の五感が補おうと、ひりひりと敏感なっているのかもしれない。掲句の紐とは、眼帯を調整したのちの余った部分が耳の後ろに下がる。冷房のわずかな風になびく紐の感触さえ違和感を覚え、これにより、冷房も単なる空調設備ではない存在となった。身体に密着しながら、いつまでも異物を発し続ける眼帯というキーワードが、ここでも妙に魅力的に映るのだった。「古志青年部年間作品集」(2012)所載。(土肥あき子)


July 2572012

 年毎の二十四日のあつさ哉

                           菊池 寛

句が俳句として高い評価を受けるに値するか否か、今は措いておこう。さはさりながら、俳句をあまり残した形跡がない菊池寛の、珍しい俳句として採りあげてみたい。この「二十四日」とは七月二十四日、つまり「河童忌」の暑さを詠んでいる。昭和二年のその日、芥川龍之介は服毒自殺した。三十六歳。「年毎の……あつさ」、それもそのはず、一日前の二十三日頃は「大暑」である。昔も今も毎年、暑さが最高に達する時季なのだ。昭和の初めも、すでに猛烈な暑さがつづいていたのである。「節電」だの「計画停電」だのと世間を騒がせ・世間が騒ぎ立てる現今こそ、発電送電体制が愚かしいというか……その原因こそが愚策であり、腹立たしいのだが。夏はもともと暑いのだ。季節は別だが、子規の句「毎年よ彼岸の入に寒いのは」をなぜか連想した。芥川自身にも大暑を詠んだ可愛い句がある。「兎も片耳垂るる大暑かな」。また万太郎には「芥川龍之介仏大暑かな」がある。そう言えば、嵯峨信之さんは当時文春社員として、芥川の葬儀の当日受付を担当した、とご本人から聞かされたことがあった。芥川の友人菊池寛が、直木賞とともに芥川賞を創設したのは昭和十年だった。さまざまなことを想起させてくれる一句である。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 2672012

 音楽で食べようなんて思うな蚊

                           岡野泰輔

ループサウンズ、フォークの時代から音楽はいつだって若者の憧れだ。手始めにギターを買って、コードを覚えれば次にはバンド仲間を募ってレンタルスタジオで音合わせ、次にはライブハウスで、と夢はどんどん膨らんでゆく。学生時代は大目に見ていた親も就職を渋っている子供に「実は音楽で食べていきたいんだけど」なんて告げられると、即座に「音楽で食べようなんて思うな」と言ってしまいそうだ。かっての自分に身に覚えあることだって、子供だと別だ。世間はそう甘くない。お決まりの親の台詞に「蚊」?渋面の父の額にブーンと飛んできた蚊が止まる。それを「あ、蚊」とぺちんと打つその間合いが面白い。文脈から言えば、「音楽で食べようと思うな、喝!」となりそうなところを「蚊」と外すところに妙味がある。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


July 2772012

 草の中滑走路は取り返しがつかない

                           上月 章

が自然で滑走路が文明というふうに対比させ、対峙させると草は良い役で滑走路が悪役という図式になるのか。いつも自然は文明に蹂躙されるということか、そんな簡単な句なのか。どうもちょっと違うような気がする。制空権を取るために、また日本本土爆撃を可能にするためにサイパン島は死闘の島となった。この島を獲るのは滑走路をつくって日本を爆撃するためだ。東京大空襲の爆撃機はこの島の滑走路から飛び立ったのだった。そんな戦略としての「取り返しのつかなさ」の方が現実感をもって読める。滑走路を原発に換えて考えたらというような読みに僕は価値を置かない。『感性時代の俳句塾』(1988)所載。(今井 聖)


July 2872012

 炎天のふり返りたる子どもかな

                           藤本美和子

天の句でありながら不思議と、ぎらぎらと暑くてどうしようもないという感覚よりも、ふり返ったその子の背景にいつか見た青空と雲の峰が広がってくるような、なつかしさ感じさせる。切り取られた一瞬から遠い風景が思い起こされるのは、炎天の、の軽い切れのためか、ふり返る、という言葉のためか、夏という季節そのもののせいなのか。同じ作者に〈炎天のかげりきたれる辻回し〉という祇園祭を詠んだ句もあり、こちらはまさに酷熱の日中の空、昨年訪れた祇園祭の熱気と活気を思い出させる。いずれの句にも、確かな視線から生まれた饒舌でない投げかけが、余韻となってじんわりと広がってくるのを感じる。『藤本美和子句集』(2012)所収。(今井肖子)


July 2972012

 橋おちて人岸にあり夏の月

                           炭 太祇

太祇(たんたいぎ)は江戸に育ちました。四十歳を過ぎて京都に上り、島原の遊郭内に不夜庵を結び、晩年は、しばしば蕪村と交わっています。梅雨出水(つゆでみず)で落ちた橋を、百メートル以上のスケールとして読んでみると、物見高い見物衆も、祭りや花火に集うようなそぞろ歩きです。橋が落ちた自然災害を深刻にとらえず、夕涼み恰好の風物にしてしまうところに、江戸時代の浮世を感じます。大雨の後の空は澄み切って、月は皓皓と涼しげです。この時代、物は簡 単に壊れるものでした。というよりも、壊れうるものだという覚悟がありました。それは、人力で組み立てた木橋には、しょせん、大水にはかなわない諦めがあったからでしょう。奈良時代、すでに無常を「飛鳥川の淵瀬」にたとえています。それが、平安末期、鴨長明になると「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」(方丈記)となり、江戸の掲句では「人岸にあり」という集団描写になって、無常を見物にしてしまっています。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


July 3072012

 人文字を練習中の日射病

                           山本紫黄

射病という言葉だけは子どもの頃から知っていたが、本当に日射病で倒れる人がいることを知ったのは、高校生になってからだった。朝礼の時間に、ときどき女生徒がうずくまったりして「走り寄りしは女教師や日射病」(森田峠)ということになった。ちょうどそういう年頃だったせいなのだろうが、太陽の力は凄いんだなと、妙な関心の仕方をしたのを覚えている。甲子園のスタンドなどでよく見かける「人文字」は、一糸乱れぬ連携が要求されるから、たった一人の動きがおかしくても、全体が崩れてしまう。つまり、日射病にやられた生徒がいれば、遠目からはすぐにわかるわけだ。作者には練習中だったのがまだしもという思いと、本番に向けて留意すべき事柄がまた一つ増えた思いとが交錯している。似たような光景を私は、甲子園の開会式本番で目撃したことがある。入場行進につづいて選手が整列しおわったときに、最前列に並んだ某高校のプラカードが突然ぐらりと大きく傾いた。すぐさま係員が飛んできて別の生徒と交代させたのだが、暑さと緊張ゆえのアクシデントだった。たしか荒木大輔が出場した年だったと思うが、あのとき倒れた女生徒は、毎夏どんな思いで甲子園大会を迎えているのだろうか。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


July 3172012

 踵より砂に沈みて涼しさよ

                           対中いずみ

んざりするほど暑い日が続くと、句集を開くときでさえ、わずかな涼感を求めるようにページを繰る。不思議なことにそんなときには吹雪や凩の句ではなく、やはり夏季の俳句に心を惹かれる。遠く離れた冬ではあまりにも現実から離れすぎてしまうためかもしれない。掲句には奥深くを探る指先にじわりとしみるような涼を感じた。人間が直立二足歩行を選択してから、踵は身体の重さを常に受け止める場所となった。細かい砂にじわじわと踵が沈む感触は、地球の一番やわらかい場所に身体を乗せているような心地になる。あるいは、波打際に立ったときの足裏の、砂と一緒に海へと運ばれてしまうようなくすぐったいような悲しいような奇妙な感触を思い出す。暑さのなかに感じる涼しさとは、どこか心細さにつながっているような気がする。〈ひらくたび翼涼しくなりにけり 前書:田中裕明全句集刊行〉〈この星のまはること滝落つること〉『巣箱』(2012)所収。(土肥あき子)




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