野田首相殿。「国民ノタメノゾーゼーヲアリガトウゴザイマシタ」。(哲




2012ソスN6ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2762012

 朝顔の夢のゆくへやかたつむり

                           中里恒子

たつむりの殻の螺旋は右巻き? 左巻き? ――大部分は右巻きだそうだ。それはともかく、かたつむりは梅雨の今頃から夏にかけて大量に発生してくる。かたつむりは可愛さが感じられても、ヌメ〜〜としていて必ずしも美しいものとは言えない。掲句は「朝顔の夢のゆくへ」という美しい表現との取り合わせによって、かたつむりにいやな印象は感じられない。それは朝顔の夢なのだろうか、かたつむりの夢なのだろうか、はたまた人が見ている夢なのだろうか。螺旋状の珍しい夢だったかもしれないけれど、どんな内容の夢だったのだろうか。そこいらの解釈は「こうだ!」と声高に決めつけてしまっては、かえって野暮というもの。ついでに「朝顔」(秋)と「かたつむり」(夏)の季重なり、そんなことにこだわるのも野暮というものでげしょう。文人による俳句は、そういうことにあまりこだわらないところがいい。恒子は横光利一、永井龍男等の「十日会」で俳句を詠んでいた。他に「花途絶えそこより暗くなりにけり」「法師蝉なにごともなく晴れつづく」などがある。(『文人俳句歳時記』)(1969)所載。(八木忠栄)


June 2662012

 死にたれば百足虫は脚を数へらる

                           雨宮きぬよ

足虫(ムカデ)はその名の通り、多い種になると173対というから300本をゆうに越える足を備える。日頃怖れているものが死んでいるとき、観察する派と、死体であっても無理派に分かれる。作者を含む前者は、刺されたり攻撃されることさえなければ、その個体に興味が湧くという探究心の持ち主であろう。死んだ百足虫を目の前にして、ぞろりと揃えられた足の一本一本が絡まることなく規則正しく動いていた事実に思いを馳せる。生前の嫌悪は遠ざかり、複雑な身体を持った彼らに「お疲れさま」とねぎらうような視線が生まれる。同集には〈いくたびも潮の触れゆく子蟹の屍〉も見られ、こちらはさらに温情の純度が高まっている。一方、生きていようが死んでいようが、存在自体に意気地なく尻込みするタイプもある。私もはっきりそちらに所属しており、おしなべて昆虫関係は不得手だが、ことに足が多いほど苦手度は増す。ムカデ、ヤスデといった存在は虫というより怪物に近い戦慄を覚える。虫嫌いの傾向は子どもの世界まで万延し、ノートの定番ジャポニカ学習帳の表紙にも昆虫が登場しなくなったという現実を聞くとやはりさみしいと思う。わらじを脱いでいると思ったらまだ履いているところだった、という「ムカデの医者むかえ」など親しみも持てる話しや、一匹を退治すると連れ合いが探しにくるといわれる百足虫の夫婦愛の深さなど胸を打たれるではないか。キーボードを打つだけで粟立っている者の言葉では説得力に欠けるが……。『新居』(2011)所収。(土肥あき子)


June 2562012

 睡蓮や十年前の日が射して

                           坪内稔典

く出かける神代植物公園(東京都調布市)は、睡蓮の宝庫と言ってよいだろう。毎夏、公園の池には温帯性の睡蓮がたくさん咲くし、温室に入ると熱帯性の花を数多く観ることができる。名前のとおりに、睡蓮は「睡る花」である。日が射せば開花するのだから、句のように「十年前の日」にも反応するはずである。この発想は、とても面白い。面白いと同時に、作者が句の睡蓮に郷愁を覚えているさまをよく表している。「この花はいつか見た花」というおもむきだ。「十年一日のごとし」という感慨も、ちらりと頭をかすめる。そしてまた、水に浮かぶこの花の風情が、さながらモネの描いた睡蓮のように、どこか永遠性を秘めていることをも告げているようだ。睡蓮を眺めていると、私はいつも「全て世は事も無し」と呟きたくなる。「十年前の日が射して」いるせいかもしれない。『ぽぽのあたり』(1998)所収。(清水哲男)




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