東大自治会が民青系全学連脱退。いつのニュースかと思ったぜ。(哲




2012ソスN6ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1962012

 船ゆきてしばらくは波梅雨の蝶

                           柴田美佐

航する船を見送るシーンにカラフルなテープを投げ交わす光景は、いつ頃から始まったのかと調べてみると、1915年サンフランシスコで開催された万国博覧会に紙テープを出品した日本人から始まっていた。この頃既に布リポンがあったため大量に売れ残った色とりどりの紙テープを「船出のときの別れの握手に」と発案し、世界的な習慣になったという。行く人と残る人につながれたテープは、船出とともに確かな手応えとなって別れを演出する。陸を離れる心細さを奮い立たせるように、色とりどりのテープをまといながら船は行く。掲句にテープの存在は微塵もないが、船と陸の間に広がる波を見つめる作者の視界に入ってきた梅雨の蝶の色彩は、惜別に振り合った手のひらからこぼれたテープの切れ端のようにいつまでも波間に揺れる。〈啓蟄や木の影太き水の底〉〈小春日やこはれずに雲遠くまで〉『如月』(2012)所収。(土肥あき子)


June 1862012

 女にも七人の敵花ユッカ

                           近江満里子

花ユッカ
戸時代からの諺に曰く、「男は閾を跨げば七人の敵あり」。男が社会に出て大人として活動すれば、常に多くの敵ができるものであるという意だが、作者は「女」も同様ですよと言っている。昔の人が読んだらびっくりするだろうが、いまの私たちには「さもありなん」と違和感は覚えない。世の中は、すっかり変わってしまったのだ。では、何故「花ユッカ」との取り合わせなのだろうか。間違っているかもしれないが、私は作者の持つ女性観のひとつだと解釈した。美人をたとえて「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」と言うが、これと同じことだ。つまり女には「花ユッカ」みたいなところがあるというわけである。公園などに植えられるこの花は、まことにおだやかな感じの白くて大きい花房を高くかかげる。だが、写真でお分かりのように、下の葉は剣先のような鋭い形状をしており、おだやかな花の雰囲気とは似ても似つかない。英名では「スペインの小刀」と言うくらいで、不気味なたたずまいである。しかもこの花は初夏と秋の二度咲きで、なかには越年して咲きつづけるものもあるそうな。女の敵の女は、かくのごとくにしつこくて執念深いというわけだ。なんだか、男の七人の敵のほうが可愛らしくヤワに思えてくる。『微熱のにほひ』(2012)所収。(清水哲男)


June 1762012

 手の薔薇に蜂来れば我王の如し

                           中村草田男

学に入って、初めて買った俳句の本、「季寄せ-草木花・夏(上)」で掲句に出会いました。この本、ご存知の方も多いと思いますが、見開き二頁のなかに、花の写真と植物の解説と例句がそろう親切なつくりで、よい入門書でした。写真と俳句の相性のよさが活かされた本です。掲句はたぶん実景で、草田男は庭の薔薇を切って手にしていたか、あるいは薔薇の花束を手にしていたか、そこに蜂がやって来たわけですから、庭が妥当でしょう。勤務先、成蹊高校の中庭かもしれません。薔薇を手にしているだけでも豪華ですが、そこに蜂が来れば絢爛です。このとき草田男は、「おー」と心の中で叫んだから「王の如し」なのかどうかはわかりません。ただ、このような、シェー クスピア 劇の一場面のような劇的一瞬が、われわれの日常の中にも稀にあり、草田男はそれを見逃さず、俳句のシャッターを切りました。薔薇の花びらは、一片一片が大きくややぶ厚い質感で、それらが中央から三重、四重にもなって真っ紅に開いているので、王にふさわしい姿です。蜂は、胸部は褐色の毛におおわれていて、腹部は縞模様が黒く光り、威圧感があります。その姿は、武器を隠し持つ王の傭兵のようです。薔薇も蜂も王朝風に美しく、しかし、薔薇は棘を出し、蜂は針を隠しています。これは、王家がつねに美をまとい、つねに武装に腐心するのに似ています。作者は、庭で全盛期のリア王のように絢爛豪華な気分にひたりながらも、同時に、王家には、常に刃が向けられている恐怖 をも感じたのかもしれません。薔薇も蜂も、美しく無惨な悲劇に合います。教師時代の草田男は、いつもマント姿だったようで、舞台衣装もきめてます。(小笠原高志)




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