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June 1862012

 女にも七人の敵花ユッカ

                           近江満里子

花ユッカ
戸時代からの諺に曰く、「男は閾を跨げば七人の敵あり」。男が社会に出て大人として活動すれば、常に多くの敵ができるものであるという意だが、作者は「女」も同様ですよと言っている。昔の人が読んだらびっくりするだろうが、いまの私たちには「さもありなん」と違和感は覚えない。世の中は、すっかり変わってしまったのだ。では、何故「花ユッカ」との取り合わせなのだろうか。間違っているかもしれないが、私は作者の持つ女性観のひとつだと解釈した。美人をたとえて「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」と言うが、これと同じことだ。つまり女には「花ユッカ」みたいなところがあるというわけである。公園などに植えられるこの花は、まことにおだやかな感じの白くて大きい花房を高くかかげる。だが、写真でお分かりのように、下の葉は剣先のような鋭い形状をしており、おだやかな花の雰囲気とは似ても似つかない。英名では「スペインの小刀」と言うくらいで、不気味なたたずまいである。しかもこの花は初夏と秋の二度咲きで、なかには越年して咲きつづけるものもあるそうな。女の敵の女は、かくのごとくにしつこくて執念深いというわけだ。なんだか、男の七人の敵のほうが可愛らしくヤワに思えてくる。『微熱のにほひ』(2012)所収。(清水哲男)


June 1762012

 手の薔薇に蜂来れば我王の如し

                           中村草田男

学に入って、初めて買った俳句の本、「季寄せ-草木花・夏(上)」で掲句に出会いました。この本、ご存知の方も多いと思いますが、見開き二頁のなかに、花の写真と植物の解説と例句がそろう親切なつくりで、よい入門書でした。写真と俳句の相性のよさが活かされた本です。掲句はたぶん実景で、草田男は庭の薔薇を切って手にしていたか、あるいは薔薇の花束を手にしていたか、そこに蜂がやって来たわけですから、庭が妥当でしょう。勤務先、成蹊高校の中庭かもしれません。薔薇を手にしているだけでも豪華ですが、そこに蜂が来れば絢爛です。このとき草田男は、「おー」と心の中で叫んだから「王の如し」なのかどうかはわかりません。ただ、このような、シェー クスピア 劇の一場面のような劇的一瞬が、われわれの日常の中にも稀にあり、草田男はそれを見逃さず、俳句のシャッターを切りました。薔薇の花びらは、一片一片が大きくややぶ厚い質感で、それらが中央から三重、四重にもなって真っ紅に開いているので、王にふさわしい姿です。蜂は、胸部は褐色の毛におおわれていて、腹部は縞模様が黒く光り、威圧感があります。その姿は、武器を隠し持つ王の傭兵のようです。薔薇も蜂も王朝風に美しく、しかし、薔薇は棘を出し、蜂は針を隠しています。これは、王家がつねに美をまとい、つねに武装に腐心するのに似ています。作者は、庭で全盛期のリア王のように絢爛豪華な気分にひたりながらも、同時に、王家には、常に刃が向けられている恐怖 をも感じたのかもしれません。薔薇も蜂も、美しく無惨な悲劇に合います。教師時代の草田男は、いつもマント姿だったようで、舞台衣装もきめてます。(小笠原高志)


June 1662012

 父の日や日輪かつと海の上

                           本宮哲郎

の日っていうのはさびしいものなんですよ、と自らも父である知人が言った。それは句会の席でのこと、父の日を詠んだ句が、ペーソスが感じられていいですね、と評されたのを聞いて、そういうものなのかなあ、とつぶやいた私に向けられた言葉だ。娘にしてみれば、一緒にビールを飲む楽しみな日だったけどな、と帰宅して歳時記を開いてみると、確かにどこかものさびしい句が並んでいる。そんな中にあった掲出句、この太陽の存在感が、作者自身の中にいつまでも生きている父親そのものなのだろう。しかし、母親を太陽にたとえる時は、その明るさがみんなをあたたかく照らす、というイメージだが、かっと海の上にあるこの太陽は、強く輝くほどなんとなく孤独だ。父もものさびしかったのか、知るよしもないが、父を亡くした娘にはさびしい、明日は父の日。『俳句歳時記 第四版 夏』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)




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