6.15が巡ってきた。同志は斃れぬ。といっても、わからぬ人も。(哲




2012ソスN6ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1562012

 鮭食う旅へ空の肛門となる夕陽

                           金子兜太

きな景を自身の旅への期待感で纏めた作品だ。加藤楸邨は隠岐への旅の直前に「さえざえと雪後の天の怒濤かな」と詠んだ。楸邨の句はまだ東京にあってこれから行く隠岐への期待感に満ちている。兜太の句も北海道に鮭を食いに行く旅への期待と欲望に満ちている。雪後の天に怒濤を感じるダイナミズムと夕焼け空の色と形に肛門を感じる兜太のそれにはやはり師弟の共通点を感じる。言うまでもなく肛門はシモネタとしての笑いや俳諧の味ではない。食うがあって肛門が出てくる。体全体で旅への憧れを詠った句だ。こういうのをほんとうの挨拶句というのではないか。『蜿蜿』(1968)所収。(今井 聖)


June 1462012

 ままこのしりぬぐひきつねのかみそりと

                           西野文代

物の固有名詞をならべただけなのにまるでお話のようだ。「ままこのしりぬぐい」はタデ科の一年草で、先っちょを紅く染めた小花が固まって咲いていると植物図鑑にはある。道端で通り過ぎても言い当てることはできそうにないが、どうしてこんな面白い名前がついているのだろう。きつねのかみそりは飯島晴子の「きつねのかみそり一人前と思ふなよ」が有名。こちらはどこかの木の茂みでホンモノを見たことがあるが、地面からひょろっと花が突き出た特異な姿だった。有毒植物ということで、こんな名前がついているのだろうか。二つ並べると「ままこの尻」、の柔らかさと、「キツネとかみそり」の配列に危うさと痛さが感じられる。嘱目で作った句かもしれないが、取り合わせた言葉が呼び寄せる不思議な世界を直観的に感じとるセンスがないとこんな句は出来ないだろう。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)


June 1362012

 髪結ふやあやめ景色に向きながら

                           室生犀星

人で「あやめ」と「かきつばた」の違いがわからない人はいないだろう。わからない? 俳人たる資格はないと言っていいかも(当方などはあやしいのだが)。「あやめ」はやや乾燥した山野に生えて、花びらに網模様がある。「かきつばた」は湿地や池沼に自生して、花は濃紫である。まだ暑くはないさわやかな五〜六月頃、縁側か窓辺で女性がおっとり髪を結っているのだろう。あるいは結ってもらっているのかもしれない。前方にはあやめが群生していて、そこを吹きわたってくる風が心地よい。そう言えば、あやめの花の形は女性のある種の髪形のようにも見える。そんな意識も作者にはあったのではないかと推察される。昭和二十八年五月に、犀星は「髪を結ふ景色あやめに向きながら」と詠んだが、五日後に上掲のかたちに改めたという。なるほど「髪を結ふ景色」よりも「あやめ景色」のほうがあやめが強調され、句姿が大きく感じられないだろうか。犀星のあやめの句に「にさんにちむすめあづかりあやめ咲く」もある。『室生犀星句集』(1979)所収。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます