半世紀ぶりに吉田喜重『秋津温泉』を観た。岡田茉莉子も若かった。(哲




2012ソスN6ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0762012

 箱庭と空を同じくしてゐたり

                           岩淵喜代子

庭は箱の中に小さな木や人を配し、川をしつらえ橋を渡したミニチュアの庭だが、どうして夏の季語になっているのだろう。歳時記の皆吉爽雨の解説によると箱庭を作るのは子供の夏の遊びの一つと書かれており、「古い町並みを歩くと軒下などに箱庭がおかれているのを見かけて、日本人の夏を感じる」とある。この頃は心理療法として箱庭を作るのが治療のひとつになっているようだけど、夏空の下で箱庭を作る遊びも楽しそうだ。箱庭を覗きこむ自分の頭上にも箱庭と同じ空がある。空から俯瞰すると自分がいる風景も覗きこんでいる箱庭の風景と同様の小ささで、人という存在がいじらしく思える。『白雁』(2012)所収。(三宅やよい)


June 0662012

 骨酒やおんなはなまもの老女(おうな)言う

                           暮尾 淳

酒は通常焼いたイワナを器に入れて熱燗をなみなみ注ぎ、何人かでまわし飲みするわけだが、季節を寒いときに限定することはあるまい。当方は真夏、富山県の山奥の民宿で何回か骨酒の席を経験したことがある。特にとりたてておいしい酒とは思わないが、座が盛りあがる。一度だけ、見知らぬ若い女性と差しで飲んだこともあった。しかし「なまもの」などという言い方をすると、女性からクレームをつけられるかもしれませんよ、淳さん(おとこはひもの?)。中七を平仮名書きにしたところに、作者が込めた諧謔的な本音があるように思われる。てらいもあるのかもしれない。「なまもの」はおいしいが、中毒するという怖さもある。「なまもの」だからといって、「刺身」などではなく「骨酒」を持ち出したあたり、なるほど。酒に浸され、まわし飲みの時間が経過するにしたがって(おんなも一緒に飲んでいるのだろう)、次第に魚の身が崩れ、骨が露出してくる姿に、「おんな」にも飲まれる哀れと怖さを感じているのかもしれない。ここは老女に「おんなはなまもの」と言わせたのだから、いっそう怖いし、皮肉も感じられる。句集の解説で、林桂は「暮尾さんの俳句の文体は、俳句的修辞への悪意とも憎悪ともつかないものがあって緊張している。最初から俳句表現に狎れることを拒否した緊張感だ」と書く。他に「もういいぜ疲れただろう遠花火」などがある。『宿借り』(2012)所収。(八木忠栄)


June 0562012

 六月や草より低く燐寸使ひ

                           岡本 眸

の生活で燐寸(マッチ)を使う機会を考えてみると、蚊取線香とアロマキャンドルくらいだろうか。先日今年初の蚊取線香をつけたが、久しぶりで力加減がわからず、何本も折ってしまった。以前は小さな家を「マッチ箱」とたとえたほど生活に密着し、あるいは「マッチ売りの少女」の売り物は、余分に持っていても使い勝手はあるごく安価な日常品としての象徴だった。その生活用品としてのマッチと認識したうえで、掲句の「草より低く」のなんともいえない余韻をどう伝えたらよいのだろう。煙草などの男の火ではない、女が使う暮らしのなかの火である。マッチは、煮炊きのための竈に、あるいは風呂焚きに、風になびかぬよう、静かな炎をつないでいく。そして、燃えさしとなったマッチの軸も、そのなかへと落し、鼻先に燃えるあかりを育てるのだ。幾世代にも渡って女の指先から渡してきた炎のリレーが自分の身体にもしみ込んでいるように、何本も失敗したマッチをこすった後の、つんと残る硫黄の匂いが懐かしくてならなかった。『流速』(1999)所収。(土肥あき子)




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