midnight press WEB」創刊号に、久しぶりに詩を書きました。(哲




2012ソスN6ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0462012

 木の匙に少し手強き氷菓かな

                           金子 敦

の食堂などに「氷」と書かれた小さな幟旗が立つ季節になった。かき氷だが、句の氷菓はコンビニなどで売られているカップ入りのアイスクリームやシャーベットである。買うと、木の匙をつけてくれる。最近ではプラスチック製の匙もあるけれど、あれは味気ない気がして好きじゃない。この木の匙はたいがい小さくて薄っぺらいから、ギンギンに冷えているアイスクリームを食べようと思っても、少し溶けてくるまでは崩そうにも崩せない。句はそのことを「手強い」と言っているのだ。でも、作者はその手強さに困っているわけではなく、むしろ崩そうとしてなかなか崩れない感触を楽しんでいる。夏の日のささやかな楽しみは、こういうところにも潜んでいるわけだ。蛇足だが、木の匙の材質には白樺がいちばん適当らしい。白樺には、ほとんど独自の匂いがないからだそうだ。『乗船券』(2012)所収。(清水哲男)


June 0362012

 勇魚捕る船や遠見の大瀑布

                           尾崎青磁

上の船から遠望できる大瀑布(だいばくふ)=大きな滝は、紀州和歌山の那智の滝と思われます。那智の滝は、飛瀧(ひろう)神社の御神体です。鳥居の向こうに拝殿はなく、参拝者は、数十メートル先の那智の滝をじかに拝みます。那智の滝の涸れる時は、この世の終わる時、という言い伝えがありますが、たしかに、滝の周囲の熊野古道の森も、生物も、人間も、水が涸れてしまえば生きられません。これは、日本各地で太古から続く自然信仰のもっともわかりやすい姿です。勇魚捕る(いさなとる)は、万葉集では「鯨魚取」と表記され、海にかかる枕詞として用いられていますが、掲句は、実際のカツオ・マグロ漁のことでしょう。紀州勝浦港から熊野灘に出た漁師たちが 、山あいから落ちる 那智の滝を遠くに見て、また、見守られて漁をしている姿です。生きる糧をじかに手でつかみ取り、漁の安全を大瀑布からじかに見守られている営みを、作者は、熊野那智大社の隣、青岸渡寺あたりから遠望していたのではないでしょうか。その視線は、はるか万葉時代よりも先に遡る、遠いまなざしになっているのかもしれません。那智の滝は、那智川となり、那智湾へと注いで海になります。蛇足ですが、この近くで、博物学者・南方熊楠は、粘菌類の発見と写生に没頭しました。つねに、携帯用の顕微鏡と画材を持って森を歩いていたそうです。「現代俳句歳時記・夏」(2004学研)所載。(小笠原高志)


June 0262012

 金魚にはきつと歪んでゐる私

                           火箱ひろ

の世界が歪んで見えることが金魚にストレスを与える、という理由で、金魚鉢で金魚を飼うことを禁止する条例がイタリアで施行、というニュースを目にしたのはずいぶん前のことだ。イタリアにも金魚玉があるんだ、とそれもちょっと意外だったが、当の金魚は、一見ノンストレスな感じで文字通り涼しい顔をしてなめらかにたゆたっている。掲出句、ぼんやりとそのゆらゆらを見るうちに、ふっと思ったのだろう。ちょっとした発見なのだが、歪んでいるのが四方の景色ではなく、私、であることで、作者の視線がはっきりして、金魚との間に通い合うものも感じられる。「子規新報」(2012年4月20日号)には、対象物を個性的にとらえたこの作者の三十句が特集されている、その中の一句。(今井肖子)




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