弟(清水昶)が急逝してから一年が経った。この秋には遺句集が。(哲




2012ソスN5ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 3052012

 生き方の他人みなうまし筍飯

                           嶋岡 晨

飯、麦飯なども夏の季語とされるけれども、やはり筍飯は初夏の到来を告げる、この時季ならではの飛び切りのご馳走である。若いときはともかく、人は齢を重ねるにしたがって、生き方がうまいとか、要領が良いとか良くないとか、自他ともに気になってくるようだ。が、うまい/うまくないは“運”もあるだろうし、努力だけではどうしようもないところがあって、なかなか思うように運ばないのが世の常。いや、とかく他人(ひと)さまのほうが、自分より生き方がうまいように思えるものでもある。おいしい筍飯を食べて初夏の味を満喫している時だから、いっそう自省されるということなのだろう。掲句の「うまし」はもちろん他人の生き方のことだが、同時に「筍飯」にも懸かっていると読解すべきだろう。(蛇足:私は筍の季節になると、連日のように煮物であれ、焼物であれ、筍飯であれ、一年分の筍を集中的に食べてしまう。日に三度でも結構。ところが今年は、セシウム汚染で地元千葉のおいしい筍は出荷停止となり、筍を食べる機会は数回で終ってしまった。食ベモノノ恨ミハ怖イゼヨ! 満足できない初夏であった。)晨には他に「水底に沈めし羞恥心太」がある。『孤食』(2006)所収。(八木忠栄)


May 2952012

 かかへくるカヌーの丈とすれちがふ

                           藤本美和子

ヌーが季語として認知されているかは別として、ヨットやボートと同じく夏季、ことに緑したたる初夏がふさわしい。万緑を映した川面を滑るように進む姿には、なんともいえない清涼感がある。人間ひとりを収め、水上にすっきりと浮いているカヌーも、陸にあがれば意外に大きいものだ。カヤック専門店のオンラインストアで確認すると、軽くてコンパクトと書かれる一人乗りカヌーの全長が432センチとあり、たしかに思っていたよりずっと長い。水辺まで運ばれる色鮮やかなカヌーに気づいてから、長々と隣り合い、その全長をあらためて知る作者は、水上の軽やかな姿とは異なる、思いがけない一面を見てしまったような困惑もわずかに感じられる。水の生きものたちが、おしなべて重量を気にせず大きくなったものが多いことなどにも思いは及んでいくのだった。〈新しき色の加はる金魚玉〉〈たそがれをもて余しをる燕の子〉『藤本美和子句集』(2012)所収。(土肥あき子)


May 2852012

 ビールないビールがない信じられない

                           関根誠子

えっ、そりゃ大変だ。どうしよう。ビール好きだから、ビールの句にはすぐに目が行く。たしかに買っておいたはずのビールが、「さあ、飲みましょう」と冷蔵庫を開けてみたら、見当たらない。そんなはずはないと、もう一度奥のほうまで確かめてみるが、影も形もない。そんな馬鹿な……。どうしたんだろう、信じられない。作者の狼狽ぶりがよくわかる。同情する。ビールという飲み物は、飲みたいと思ったときに、冷たいのをすぐに飲めなければ意味がない。精神的な即効性が要求される。そんなビールの本性を、この句はまことに的確に捉えている。「酒ない酒がない…」では、単なるアル中の愚痴にしかならないが、ビールだからこその微苦笑的ポエジーがにじみ出てくる佳句だ。念のためにいま我が家の冷蔵庫をのぞいたら、ちゃんとビールが鎮座していた。あれが今宵、まさか消えてしまうなんてことはないだろうね。『季語きらり100 四季を楽しむ』(2012)所載。(清水哲男)




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