今日は「主婦休みの日」なんだそうな。主夫だって休みたいけど。(哲




2012ソスN5ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2552012

 眉に闘志おおと五月の橋をくる

                           野宮猛夫

志、真面目、努力、素朴、根性、正直、素直。こんな言葉に懐かしさを感じるのは何故だろう。あまり使われなくなったからだろう。使うとどこか恥ずかしいのは言葉が可笑しいのか恥ずかしがる方がひんまがっているのか。男が「おお」と手を挙げて橋のむこうからやってくる。貴方にこんな友だちがいるか。いても眉に闘志なんかない奴だろうな。へこへこした猫背のおじさんがにやにやしながらやってきて無言でちょっと手を挙げる。そんな現代だ。正面から真面目に一途にこちらにむかってぐんぐん来る。溌剌とした五月の男。そんな男がいたらむしろ迷惑なご時世かもしれない。正面も一途も溌剌も恥ずかしい言葉になってしまった変な時代だ、今は。『地吹雪』(1959)所載。(今井 聖)


May 2452012

 枇杷熟れてまだあたたかき山羊の乳

                           三好万美

の昔、牧場で飲む牛乳はおいしいと搾りたての牛乳を飲まされた。だけどアルミの容器に満たされた液体は、むうっと生臭い感じがして苦手だった。多分生き物の体温がぬるく残っているのが嫌だったのだろう。回虫がついていると洗剤を使って野菜を洗うのがコマーシャルで流れていた時代だ。人工的なことが洗練されているという思い込みがあったのかもしれない。掲句では真っ白な山羊からほとばしりでる乳と枇杷の明るい橙色のコントラストが素敵だ。銀色の生毛に包まれた枇杷も暖かかろう。山の斜面に山羊を遊ばせ乳を搾る生活が残っている地域ってあるのだろうか。そんな牧歌的風景があるなら見て見たい。『満ち潮』(2009)所収。(三宅やよい)


May 2352012

 袷着て素足つめたき廊下かな

                           森田たま

(あはせ)は冬の綿入れと単衣のあいだの時季に着るもので、もともとは綿入れの綿を抜いたものだったという。夏がめぐってきたから袷を着る。気分は一新するにちがいない。もちろんもう足袋も鬱陶しい時季だから、廊下の板の上を素足でじかにひたひた歩く、そのさわやかな清涼感が伝わってくる。人の身も心もより活動的になる初夏である。足袋や靴下を脱いで素足で廊下を歩き、あるいは下駄をはく気持ち良さは、今さら言うまでもない。人間の素肌がもつ感覚にはすばらしいものがある。ところで、森田たまを知る人は今や少なくなっているだろうが、『もめん随筆』『きもの随筆』『きもの歳時記』などで知られた人の句として、掲句はなるほどいかにもと納得できる。ひところ参議院議員もつとめ、1970年に75歳で亡くなった。「いささかのかびの匂ひや秋袷」という細やかな句もある。また三橋鷹女には「袷着て照る日はかなし曇る日も」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます