さて、日常が戻ってきた。月末には母の納骨が控えているけれど。(哲




2012ソスN5ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1552012

 縦書きの詩を愛すなり五月の木

                           小池康生

がものを伝うのを見て、あるいは花や葉が風に舞い落ちるのを眺め、人は文字を縦書きに書くことを思いついたのではないか。視線を上から下へおろすことは、人間の両目の配置からして不自然なことだそうで、横書きの文章の方が早く理解できるといわれる。しかし、ものを縦になぞることには、引力のならいでもある安心感がある。パソコンに向かっていると横書きに見慣れ、常に目は左から右ばかりに移動する。紙面の美しい縦書きを追うことは、目のごちそうとも思える。立夏から梅雨に入るまでのひととき、木々は瑞々しく茂り、雲は美しく流れる。青葉に縁取られた五月の木の健やかさのもとでは、やはり縦書きの文字を追いたいと、目が欲するのではないか。一年のなかでも特別美しい月である五月に、目にもたっぷりとごちそうをふるまってあげたい。〈ペン先を湯に浸しおく青嵐〉〈家族とは濡れし水着の一緒くた〉『旧の渚』(2012)所収。(土肥あき子)


May 1452012

 丁寧に暮らす日もあり新茶汲む

                           奥田友子

にとめて、すぐにどきりとした。私には「丁寧に暮らす」という意識がほとんどない。大げさではなく、生まれてこのかた、大半の日々を行き当たりばったりに暮らしてきた。貧乏性に近いと思うのだが、常に何かに追いまくられている感じで暮らしており、生活や人生に落ち着きというものがない。友人などには反対に、少なくとも見かけは、何事にも丁寧につきあい、悠然としている奴がいて、どうすればあんなふうに暮らせるのかと、いつも羨しく思ってきた。そんなわけで、句の「暮らす日も」の「も」に若干救われはするけれど、しかしこれは謙遜でもありそうだ。新茶の馥郁たる香りや味を本当に賞味するには、精神的にも身体的にもよほどの強靭さとゆとりがなければ適わない。そういうことなんだろうなあ。きっと、そうなんだ。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


May 1352012

 み鏡に火のはしりたる雷雨かな

                           大橋櫻坡子

降る夕暮れどきの二階屋で、女は一人、じっと鏡を見ています。自身の容貌には、過去の履歴が刻まれていて、皺の一本一本が、目に刺さってくるような心持ちになってきます。かなり長い時間、正座して鏡を見続けているうちに、鏡は、現在の自身の相を映し出し始めます。その時、鏡に火が走る、それは一瞬、自身の相から発せられた火か、と驚きますが、直後、雷鳴が響き、ふと我に返ります。鏡に映ったのは自身の内奥の火か、それとも雷の閃光か、その両方か、そのいずれの火も光も消え、雨音だけが残り、今の自身が露わに映っている鏡----作者が女性なので、句からこんな妄想を抱いてしまいます。miとhiとraiの韻が効いていて、17音中7音がi音であることで、句の「はしり」もあるように思われます。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)




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