久留米石橋文化センターの薔薇園。ちょうど真っ盛りでした。(哲




2012ソスN5ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1452012

 丁寧に暮らす日もあり新茶汲む

                           奥田友子

にとめて、すぐにどきりとした。私には「丁寧に暮らす」という意識がほとんどない。大げさではなく、生まれてこのかた、大半の日々を行き当たりばったりに暮らしてきた。貧乏性に近いと思うのだが、常に何かに追いまくられている感じで暮らしており、生活や人生に落ち着きというものがない。友人などには反対に、少なくとも見かけは、何事にも丁寧につきあい、悠然としている奴がいて、どうすればあんなふうに暮らせるのかと、いつも羨しく思ってきた。そんなわけで、句の「暮らす日も」の「も」に若干救われはするけれど、しかしこれは謙遜でもありそうだ。新茶の馥郁たる香りや味を本当に賞味するには、精神的にも身体的にもよほどの強靭さとゆとりがなければ適わない。そういうことなんだろうなあ。きっと、そうなんだ。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


May 1352012

 み鏡に火のはしりたる雷雨かな

                           大橋櫻坡子

降る夕暮れどきの二階屋で、女は一人、じっと鏡を見ています。自身の容貌には、過去の履歴が刻まれていて、皺の一本一本が、目に刺さってくるような心持ちになってきます。かなり長い時間、正座して鏡を見続けているうちに、鏡は、現在の自身の相を映し出し始めます。その時、鏡に火が走る、それは一瞬、自身の相から発せられた火か、と驚きますが、直後、雷鳴が響き、ふと我に返ります。鏡に映ったのは自身の内奥の火か、それとも雷の閃光か、その両方か、そのいずれの火も光も消え、雨音だけが残り、今の自身が露わに映っている鏡----作者が女性なので、句からこんな妄想を抱いてしまいます。miとhiとraiの韻が効いていて、17音中7音がi音であることで、句の「はしり」もあるように思われます。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


May 1252012

 包丁はキッチンの騎士風薫る

                           中村堯子

句を始めたばかりの頃、風薫る、が春で、風光る、が夏のように感じられなんとなく違和感を持った記憶がある。そのうち、まず日差しから春になってくるとか、緑を渡る風が夏を連れてくるとか、気がついたのか思いこんだのか、その違和感はなくなってしまった。さらに薫風は、青葉が茂った木々を渡る南風を「薫ると観じた」(虚子編歳時記)とあり、香りだけでなく五感でとらえるということなのだろう。掲出句、包丁で一瞬どきりとさせられるが、薫風が吹き渡ってくることで、銀の刃と若葉の緑が輝き合い、キッチンの騎士、という歯切れのよい音と共に清々しさが広がる。『ショートノウズ・ガー』(2011)所収。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます