大型連休も今日でおしまい。天気の良くないGWでしたね。(哲




2012ソスN5ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0652012

 石の数が川音となり夏来る

                           大谷碧雲居

休中に川遊びをされた方も多いでしょう。掲句から、たとえば、河原で石を見るでもなくのんびり過ごしていると、川の音が夏を連れてきているようなすがすがしさを感じられます。句は、「石の数が」と字余りで始まっています。これは、数えるに余るほどの無数の石の数を表していて、中下流域の広い河原の光景でしょう。水の流れが無数の石と衝突して川音となるという句意は、説明的でもあり、即物的でもあります。また、句の中から生物を除外して、石と水という無機物の物理現象から「夏来る」を抽出する造作は、竜安寺の石庭に通じる冷徹さがあります。生命や地名といった有機的な要素を取り除き、石に水がぶつかる川音から「夏来る」と言い切る一句は、即物的であるからこそ普遍的で、どこの河原でも、どんな人でも、河原で過ごしたときにふと気づける夏の到来です。『日本大歳時記・夏』(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


May 0552012

 湯の町に老いて朝湯や軒菖蒲

                           石川星水女

が近づく匂い、というのがある。それは、晴れた日よりも曇り、あるいはさっと来て上がった雨の後、ぐんぐん色濃くなってきた緑と濡れた土の香に、ああ夏が来る、とうれしさとなつかしさの入り交じった心地になる匂いだ。立夏と同時に端午の節句でもある今日。軒菖蒲、は、菖蒲葺く、の傍題だが、祖母が軒下に菖蒲湯に入れるほどの菖蒲を差していた記憶がある。本来は菖蒲と蓬を束にして屋根に置き邪気を祓う、というがこれもさぞよく香ることだろう。掲出句は、昭和四十年代後半の作、旅先での何気ない一句なのだが、すっと情景が浮かぶ。そこに人の暮らしが見えることで、小さな湯の町に、温泉、若葉、菖蒲に蓬と、豊かな初夏の香りがあふれてくる。『土雛』(1982)所収。(今井肖子)


May 0452012

 骨切る日青の進行木々に満ち

                           加藤楸邨

書きに「七月一日、第一回手術」1961年に楸邨は二度手術を受けている。結核治療のための胸郭整形手術。当時は胸を開いて肋骨を外したのだった。「青の進行木々に満ち」と手術への覚悟を生命賛歌に転ずるところがいかにも楸邨。悲しいときや苦しいときこそそこに前向きのエネルギーを見出していく態度が楸邨流。文理大の恩師能勢朝次の死去に際しては「尾へ抜けて寒鯉の身をはしる力」と詠み、妻知世子の死去の折には「霜柱どの一本も目覚めをり」と詠んだ。俳句の本質のひとつに「挨拶」があるとするなら、身辺の悲嘆を生へのエネルギーに転化していくことこそ「生」への挨拶ではないか。『まぼろしの鹿』所収。(1967)所収。(今井 聖)




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