ゴールデンウイークまでに片づけねばならぬあれこれ。やれやれ。(哲




2012ソスN4ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2242012

 雁帰る沖にしづめる剣いくつ

                           木津直人

句は、俳句という短い形式のなかに現在と古代をダイナミックに振幅させています。「雁帰る」が季語で、秋に寒地より越冬にやって来た雁が春に帰る情景を、作者は現在の視点で見ています。見続けているうちに、沖の水平線の彼方に雁が消えていきます。それは沖に沈んでいくようにも見えながら、作者の想念のなかで、海底の剣になっていったのではないでしょうか。雁の形と剣の形は似ていますから、心地よい飛躍です。ここで句は、現在の雁から古代の剣へと大きく振幅します。「雁」と「剣」は対照的で、それは、空の彼方と海の底、見えているものと見えていないもの、自然の営みと人の戦いの歴史、というように大きな隔たりがあります。この対照的な「雁 」と「剣」を句のなかでつなぎとめているのが「沖」でしょう。「沖」は、「雁帰る沖」でもあり、「沖にしづめる剣」でもあり、「沖」が空と海底を空間的につなぎとめている蝶番(ちょうつがい)のはたらきを担っています。最後は「いくつ」と疑問で終わり、古代から現在へと振幅が戻ります。問いかけは少年が持つ謎や憧れや好奇心に近く、沖に古代を夢想する詩情を感じます。作者は詩人で、詩集に『単位』(七月堂)『記憶祭』(私家版)があります。「ににん」(2012年春号)所載。(小笠原高志)


April 2142012

 散ることは消えてゆくこと山桜

                           山本素竹

京の桜は花吹雪から花屑となり彷徨っているが、若葉に目を奪われているうちにいつのまにかなくなる。いくらかは土に還るだろうが、ほとんどはゴミと一緒に燃えたり下水に流れ込んだりしてしまうのだろう。でも山桜は、花時が終わればその淡々とした華やぎをあっさりと消す。消えることは儚くもあるが、そこには山の土となりやがて花となって蘇る明るさもある。今年、満開の桜に包まれた山、というものを生まれて初めて見て、そんな感を強くした。一本ずつ違う花の色は、草木のみどりの濃淡と重なり合い溶けあって、花の山となり谷となって続いていた。夜明け前は薄墨色に眠り、日が差せば明るくふくらむ山桜。短い旅から戻り、茶色くなりかけた花屑が残っているアスファルトの道を歩きながら、山桜に惹かれるのは生きている山にあるからなのだとあらためて実感している。『百句』(2002)所収。(今井肖子)


April 2042012

 オルガンを聴く信長に春の風

                           井川博年

近俳句の勉強会で秋元不死男さんの「子規知らぬコカコーラ飲む鳴雪忌」という句を読んだ。この句の鳴雪忌が嵌っているかどうかは別にして、新しいものに関心を寄せる子規の性格から想像すると、もしコカコーラが当時出たらすぐに試しただろうという句だとの鑑賞をした。史実として信長がオルガンを聴いたかどうかは知らないが、やはり新しいものに積極的な信長のこと、こういうこともあったかと思われてくる。ドラマの一シーンにこんな場面を入れれば血なまぐさい生涯の信長という定説に奥行きが生まれること請け合いである。「OLD STATION 15 」(2012)所載。(今井 聖)




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