釈迦の誕生日、花祭り。明治期に浄土真宗の僧が提唱した名称。(哲




2012ソスN4ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0842012

 満開の桜のために琴を弾く

                           品川鈴子

の句を作るのは、難しいです。例年、この時期の句会の兼題は「桜」になりますが、私の場合は、句が桜に負けてしまって、うまく作れたためしがありません。その点、掲句は、句の中に桜を見事にとどめています。満開の桜のために琴を弾く----俳句ですが散文のようでもあり、さらりと句を受け入れられます。ただ、何度もこの句を反芻しているうちに、現実の満開の桜とは刹那の瞬間にしか存在しえず、それは奇蹟的なことであ り、しかし、俳句の中ならば、そのような満開の桜の瞬間をとどめておくことが可能なのだということに気づかされました。琴を弾くまでには数分程度、準備の時間が必要です。丈、約180センチの琴を運び、十三本の絃、一本一本に柱(じ)を立て、それから曲に合わせて調絃します。「満開の桜のために」琴を準備しているあいだ、きっと桜は散らないで、満開のまま、じっと待ってくれている、俳句の中ならば、これは可能です。そして、準備が整い、爪が十三本の絃を連続的にはじいた琴の音に共鳴して、満開の桜の花びらが舞い散り始める、そんな余韻が残ります。作者は、心から桜を愛で、桜の心に手向けて琴を弾く心根をおもちで、これを有心体というのでしょう。『季寄せ 草木花 春・上』(1980朝日 新聞社)所載。(小笠原高志)


April 0742012

 春愁のにはかに本をとぢにけり

                           岩岡中正

は心が浮き立つものなのに、どことなくもの憂くて気が塞いでしまう、なんだかとらえどころのないものだけどわかるような気も、と言われ続けている春愁である。掲出句、にはかに、は、春愁、と、とぢにけり、どちらにかかっているのだろう。春愁のにはかに、であれば、急にもやもやした気持ちになり、ため息とともに本は閉じられる。にはかに本を閉じにけり、であれば、読み出したもののやはり本には集中できず、ぱたりと本は閉じられる。後者の方が、にはかに、がはっきり働いて、もの憂いというより少し切ないような、心が波立つような、そんな春愁を感じさせる。作者二十三歳の句、若き日の恋を思わせる、などと言ったら作者に叱られてしまうかもしれないが。〈囀の声おちてくる膝の上〉〈一片の落花世界を静かにす〉『夏薊』(2011)所収。(今井肖子)


April 0642012

 畳を歩く雀の足音を知つて居る

                           尾崎放哉

由律の中でも短律といわれる短い文体が得意な放哉のこと。どうしてこの句「畳を歩く雀の足音」としなかったのだろうか。その方が「もの」に語らせて余韻が残るのに。放哉は「知つて居る」までいうことでそういう境涯にある「私」をどうしても言いたかったのだとだんだんわかって来る。しかしそこまで言わなくても上句だけで十分境涯もわかるのにと読者として思い返したりもする。言わずもがなのところをどうして言わないではおられなかったのか。一句を真中に置いての作者との対話は飽きることがない。俳句を読むうれしさを感じる時間である。『大空』(1926)所収。(今井 聖)




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