プロ野球開幕、甲子園選抜たけなわ。球春いたる。嬉しいな。(哲




2012ソスN3ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 3032012

 三月やモナリザを売る石畳

                           秋元不死男

ナリザといっただけであまりにも有名な絵の複製だということがわかる。こんなことすら自分が作るときは臆病になるのだ。絵や複製という説明がなくてもそれとわかるのは石畳や「売る」があるからだ。三月はどうだろう。十月や七月ではだめかな。絶対三月であらねばならないと思う人にはそれなりの理由があるのだろうが、僕は十月でも七月でもいいような気がする。問題は季語がさまざまに取り替えがきくことをもってしてその句の価値が減じるという考え方ではないか。それは俳句というものは季節を詠うものだという目的意識に由来する。この句の上五に入れて価値を減じる季語もあろうが、三月と同じかそれ以上の価値をもたらす季語があるかもしれぬと考えることはこの句の価値を疑うこととイコールではない。『万座』(1967)所収。(今井 聖)


March 2932012

 陽炎の広場に白い召使

                           冬野 虹

炎は春のうららかな陽射しに暖められた空気に光が不規則に屈折したためにおこる現象。「召使」という言葉から考えるとこの場所は駅前広場や公園のやや広い芝生といった日本の風景ではなく、ヨーロッパの街の中心部にある広場に思える。城壁に囲まれた中世の街の中心部にある広場は時に処刑や祭りが催された政治的中心地。強固な石造りの建築物や石畳だからこそ、その揺らぎは見るものの不安をかきたてる。その凝視が、「白い召使」といった不思議な形容を生み出したのだろうか。あるようでない、いないようでいる。陽炎を媒介に日常を突き抜ける作者の視線が幻想的な世界を作り出している。『雪予報』(1988)所収。(三宅やよい)


March 2832012

 影ふかくすみれ色なるおへそかな

                           佐藤春夫

の「おへそ」はもちろん女性のそれだけれども、春夫は女性の肉体そのものを直接のぞいて詠ったわけではない。ミロのヴィーナスの「おへそ」である。一九六四年に上野の国立西洋美術館にやってきて展示され、大きな話題を呼んで上野の山に大行列ができた。その折、春夫は一般の大行列に混じって鑑賞したわけではなく、特別に許されて見学者がいないところで、ヴィーナスに会うことができたのだという。それにしても「すみれ色」とはじつに可憐で奥床しく、嫌味がない。春夫があの鋭い目と穏やかならざる凄みのある表情で、「おへそ」をじっと睨みつけている様子が想像される。私は後年、パリのルーブル美術館で通路にさりげなく置かれたヴィーナス像を、まばらな見学者に拍子抜けしながら、しげしげと見入ったことがあったけれど、さて、おへその影が何色に見えたか記憶にない。同じときに春夫は「宝石の如きおへそや春灯(はるともし)」という句も作っている。「宝石」よりは「すみれ色」のほうがぴったりくることは、誰の目にも明らか。関森勝夫『文人たちの句境』(1991)所載。(八木忠栄)




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