国会議員は頻繁に「しっかりと」と口にする。しっかりしてくれ。(哲




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March 2532012

 雀来て障子にうごく花の影

                           夏目漱石

、縁側、障子、畳。日本の家屋には、室内に居ながら季を楽しめるしつらえがありました。漱石の小説の主人公たちは、横たわる姿勢で沈黙を保ち、そこに集まる人々の饒舌が物語を進行させていく----という蓮見重彦氏の漱石論がありますが、掲句の漱石も、畳に横臥しながらぼんやり障子をながめていたのかもしれません。ふいに雀がやって来て、桜の小枝にちょこんと乗る。このとき、初めて漱石の目の焦点は花の影をとらえます。雀がうごかした花の影に心をうごかされたのでしょう。漱石が生きた明治時代は、まだ映画産業が成立していませんでしたが、そのかわり、日本家屋に住まう人たちは、障子をスクリーンにして、季ごとの花鳥諷詠を楽しむことができました。アニメーションがなかったこの 時代に、雀が演出するアニメを漱石がほほ笑んだ、そんな俳味を感じます。明治24年の作。当時、東京帝大特待生の24歳。『漱石全集17巻』(岩波書店)所収。(小笠原高志)


March 2432012

 山彦の山を降り来よ蓬餅

                           吉田鴻司

彦は、山の神であり精霊であり妖怪の一種でもあるらしい。確かに、自分の声と分かっていても誰かが答えてくれている気がする。この句の作者は、山を眺めつつ山に親しみ、山彦に、降りておいで、と呼びかけている。自分の子供の頃の山暮らしを振り返っても、春が一番思い出深い。土筆や蓬を摘み、れんげ畑で遊び、すべてが光り出す頃の記憶は、風の匂いとともに鮮明であり、蓬餅の草の香りがまたなつかしさを深くする。そんなことを思いながら読んだ句集のあとがきに「私は山に母を感じるのである」とある。山彦は母の声となって還ってくる、と語る作者だからこそ、降り来よ、がやさしく感じられるのだろう。春の山が微笑んでいる。『吉田鴻司全句集』(2011)所収。(今井肖子)


March 2332012

 雪すべてやみて宙より一二片

                           山口誓子

空を思う。昼だと日差しで雪が溶けるイメージがあるから。すべて止んだのにどうして一二片降りてくるのか。これは空から降ってくる雪ではない。完全に雪が止んだあとのしずかさの中、高みに積った粉雪が風のせいなどで自然に落ちて来るのだ。すべて止んだあと降りてくる雪、そんな難しいところをどうしてこんなに平明に詠めるのだろう。僕など同じ発想をしたらおそらく苦しまぎれに季語「風花」を用いるような気がする。風花は空から降ってくる雪だから趣旨が違うのに。そもそも止んだあとに落ちて来る雪なんて難しいところは諦めるしかないのだ。細かいことだが、一二片も最近の俳人は使えない。一、二片と書くだろう。じゅうにへんと誤読されるのが恐いからだ。読者が信頼できなくなっているということと自分と向き合うモノローグ性が弱くなって他者による理解を優先させる考え方が強くなっているからだ。だから「、」を多用したり名詞を並べるときに「・」を用いたりする。「、」も「・」も俳句の立姿を損ねる。読者を信頼するということと自分に向き合うこと。これは矛盾しない。『青女』(1950)所収。(今井 聖)




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