梅の春。それにしても気温の低い日がつづく。桜の春はいつかな。(哲




2012ソスN3ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1532012

 ふらここを乗り捨て今日の暮らしかな

                           野口る理

さい頃はぶらんこほどステキな遊具はないと思っていた。学校のぶらんこはいつも順番待ちで心ゆくまで楽しめないので学校が終わると遠くの公園まで自転車で遠出してとっぷりと日が暮れるまでぶらんこを漕ぎ続けたものだ。ぶらんこの板に乗り、勢いをつけて地上を漕ぎ離れると何だか空に近くなり、高く高く耳元で風が鳴るのも心地よかった。おとなになって戯れに乗ってみたことは何度かあるけど、子供のときに感じた爽快感とは程遠いものだった。遠い幼年期の思い出が薄い光に包まれているように、ぶらんこもすぐそこにありながら大人にとっては手の届かないもののようだ。「ぶらんこを乗り捨て」「今日の暮らし」いう中七の句跨りの切れに、単純な時間の経過ではなく、幼年期からおとなになるまでの時間的隔たりが凝縮されている。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


March 1432012

 炬燵今日なき珈琲の熱さかな

                           久米正雄

月中旬にもなって炬燵の句?――と首をかしげるむきがあるかもしれない。けれども、少し春めいてきて暖かくなったからといって、さっさと炬燵やストーブを片づけることにはなかなかならないものだ。しばらく暖房で過ごしてきたことの惰性もあるし、北の地方ではそろそろ片付けていい時季であっても、まだ寒さが残っている。(今年はいつまでも寒い。)炬燵を取り去った当初はがらんとして、部屋にはどこかしら寒々しさが漂う。そんな時にすする珈琲の熱さは、ひとしお熱くありがたく感じられるだろう。熱い珈琲カップを、両手で押しいただいているといった様子が見えてくる。そうやって人々は徐々に春に馴染んで行くわけだ。「炬燵」という古い語感と、しゃれた語感の「珈琲」の取り合わせに注目したい。また「今日炬燵…」ではなく、「炬燵今日…」とした語法によって「炬燵」が強調され、リズムも引き締まった。正雄は三汀と号し、俳句の本格派でもあった。他に「綾取りの戻り綾憂し春の雨」がある。平井照敏編『新歳時記・春』(1996)所収。(八木忠栄)


March 1332012

 あたたかな女坐りの人魚の絵

                           河内静魚

座りとは、正座から崩した足のかたちで、片方に斜めに流す横座りや、両方に足を流したあひる座りなどを指す。人魚の絵はみな横座りである。腰から下が魚なのだから横座りしかできないのは当然なのだが、では男性の人魚はどのように座るのだろうと不思議に思って探してみると、はたして腹這いか、膝のあたりを立てた体育座りをしていた。やはりなよやかな女性を感じさせる座り方はさせられないということだろう。よく知られているコペンハーゲンの人魚姫の像が、憂いを込めて投げかける視線の先はおだやかに凪ぐ水面である。たびたび海上に浮かび、恋しい王子の住む城を眺めたのち、引きかえに失うことになる海の生活を愛おしんでいるのだろうか。人魚姫が人魚であった時代は、愛に満ち、あこがれと希望にあふれた時代だったのだと、あらためて思うのだ。〈春風といふやはらかな布に触れ〉〈風船の空にぶつかるまで昇る〉『夏風』(2012)所収。(土肥あき子)




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