この半月ほどは街にも出ずに蟄居。引きこもるつもりはないけれど。(哲




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March 1432012

 炬燵今日なき珈琲の熱さかな

                           久米正雄

月中旬にもなって炬燵の句?――と首をかしげるむきがあるかもしれない。けれども、少し春めいてきて暖かくなったからといって、さっさと炬燵やストーブを片づけることにはなかなかならないものだ。しばらく暖房で過ごしてきたことの惰性もあるし、北の地方ではそろそろ片付けていい時季であっても、まだ寒さが残っている。(今年はいつまでも寒い。)炬燵を取り去った当初はがらんとして、部屋にはどこかしら寒々しさが漂う。そんな時にすする珈琲の熱さは、ひとしお熱くありがたく感じられるだろう。熱い珈琲カップを、両手で押しいただいているといった様子が見えてくる。そうやって人々は徐々に春に馴染んで行くわけだ。「炬燵」という古い語感と、しゃれた語感の「珈琲」の取り合わせに注目したい。また「今日炬燵…」ではなく、「炬燵今日…」とした語法によって「炬燵」が強調され、リズムも引き締まった。正雄は三汀と号し、俳句の本格派でもあった。他に「綾取りの戻り綾憂し春の雨」がある。平井照敏編『新歳時記・春』(1996)所収。(八木忠栄)


March 1332012

 あたたかな女坐りの人魚の絵

                           河内静魚

座りとは、正座から崩した足のかたちで、片方に斜めに流す横座りや、両方に足を流したあひる座りなどを指す。人魚の絵はみな横座りである。腰から下が魚なのだから横座りしかできないのは当然なのだが、では男性の人魚はどのように座るのだろうと不思議に思って探してみると、はたして腹這いか、膝のあたりを立てた体育座りをしていた。やはりなよやかな女性を感じさせる座り方はさせられないということだろう。よく知られているコペンハーゲンの人魚姫の像が、憂いを込めて投げかける視線の先はおだやかに凪ぐ水面である。たびたび海上に浮かび、恋しい王子の住む城を眺めたのち、引きかえに失うことになる海の生活を愛おしんでいるのだろうか。人魚姫が人魚であった時代は、愛に満ち、あこがれと希望にあふれた時代だったのだと、あらためて思うのだ。〈春風といふやはらかな布に触れ〉〈風船の空にぶつかるまで昇る〉『夏風』(2012)所収。(土肥あき子)


March 1232012

 春宵や夫に二人の女客

                           石田幸子

は、五ツ戌の刻(午後八時)から五ツ半(午後九時)までを「宵」といったそうだが、いまでは夕暮れあたりから午後九時くらいまでをそう呼んでいる。寒い冬もようやく去って、気温が高くなってきた分、なんとなくはなやいだ気分が漂う時間だ。そんなある春の宵に、珍しく夫に女客が訪れてきた。ただ、客は二人というのだから、一人とは違って、深刻な用向きとは無縁のようだ。作者は二人をもてなすために、台所に立っているのだろう。夫のいる部屋からは、時おりにぎやかな笑い声なども漏れ聞こえてくる。そんなはなやぎの場から少し離れている作者の胸の内には、はなやぎをそのまま受け入れる心と、その輪に入れないでいるためのジェラシーっぽい心とが交錯しているのだ。いかにも春の宵らしい、ちょっと不安定な心理の動きが背後に感じられて、ひとりでに微笑が浮かんできた。『現代俳句歳時記・春』(学習研究社・2004)所載。(清水哲男)




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